(C)Carol Goss 2005

 

ポール・ブレイの在りし日を思い浮かべて

 年明け早々、新聞の訃報欄にポール・ブレイの名があった。ああ、彼もついに鬼籍に入ったか―――脳裏に『Open, to Love』の静謐なたたずまいが耳もとによみがえった。が、次の瞬間、なぜか私の記憶は17年前のある出来事へと飛んだ。

 それは1999年の6月10日。5月に23年ぶりの来日を果たしたポール・ブレイが、新宿ピットインでのクリニックとコンサートなど大半のスケジュールを消化し、最後に用意されたレコーディングに臨んだときのことだ。実は確かその23年前の1976年、ブレイが二度目の来日を果たしたこの年は発足したばかりの自主レーベル“WHYNOT”のプロデュース活動のために、不運にも私は滞米中の身だった。

 さて、この来日中、ポール・ブレイに用意されたレコーディングはふたつ。最初の1つ(10日)が故・富樫雅彦とのデュオ演奏だった。離日を控えた6月、それも2つの吹込を連日にわたって試みる慌ただしさで、本人はさぞ神経質になっているだろうと思いきや、ブレイ本人はえらくリラックスして日本での最後の仕事をとことん楽しもうと心に決めているかのようだった。相当に気むづかしい人ではないかという当初の予想は幸いにして外れた。一方の富樫雅彦はブレイとの手合わせは初めてのせいか、あるいは音楽的思考の違いのせいか、私が感じた限りでは決して意気投合し合っているようには見えなかった。だからといって、これだけのスケールと実績を持つ富樫の演奏が陳腐な内容に堕したものだったというわけでは決してない。録音場所が旧音楽の友社(神楽坂)のホールだったという違和感が彼の繊細なセンスを狂わせたのかもしれない。個人的な体験に即していえば、富樫が故スティーヴ・レイシー加古隆、あるいは佐藤允彦や故ドン・チェリーらと演奏したときの、少年のように目を輝かせた姿、心を開放させた柔らかな笑顔はそこにはなかった。個性的な、しかも才能にも恵まれ、かつ表現者たる音楽家としての自覚を持つ巨大なミュージシャンのほんのちょっとした感覚のすれ違いが、ブレイと富樫の対話を屈折させてしまったように私には感じられてならなかった。

ポール・ブレイの72年作『Open, To Love』収録曲“Ida Lupino”

 

アコースティック・ピアノへの帰還

 とはいえ、ポール・ブレイが同じカナダ出身の異才グレン・グールドに比肩するピアニストであり、希代の表現者であることには何の疑いもない(偶然とはいえ、この両者はそろって1932年生まれ。11月10日生まれのブレイに対して、9月25日生まれのグールドが1ヶ月と少々先に生まれたというに過ぎない)。あるいは、ジョニ・ミッチェルのように他の誰にもない詩人の魂を持って生まれた音楽家というべきなのかもしれない。ジャズ史上にその名を刻んだギル・エヴァンスを引き合いに出すまでもなく、カナダからは世界でも傑出してかくもユニークな音楽家が生まれていることは特記に値する。ジョニ・ミッチェルといえば、彼女の才能を愛でる人がジャズ界に少なくなかった。彼女はチャールズ・ミンガスの音楽を自己の音宇宙と合体させることを厭わなかったし、ミンガスはミンガスで彼女の作品をよく取り上げて演奏した。そのミンガスが音楽家としてポール・ブレイの才能に注目したのも決して故なきことではありえない。よく知られるようにブレイが世に出るきっかけとなったデビュー作は、ミンガス自身がベースを弾き(ドラムスはアート・ブレイキー)、みずからプロデュースをかって出た『イントロデューシング』(debut)であり、のみならずミンガス・ワークショップのピアニストとして起用していたくらいだ(その一端はキャンディド盤など2枚のミンガスのアルバムに聴ける)。このころまでのブレイはご多分に漏れず、バド・パウエルの奏法から出発し、モダン・ジャズの幕開けに立ち会う活動を熱心に展開しつつあった。チャーリー・パーカーの音楽に深く共鳴し、彼のグループをカナダへ招いて共演の機会を得るなど、60年代以後のブレイの音楽からは想像もできないほど出発点は明快かつ正統的だった。

 だが、その直後に米国の永住権を取得し、53年に米西海岸に活動の場を移したころからブレイの上昇志向に火がついた。カーラ・ブレイと意気投合し合って結婚し、オーネット・コールマンドン・チェリーと交流し合ったことなどが契機となっているだろう。フリー・ジャズの洗礼を受け、ジャズの10月革命などの鮮烈な体験を経て、ニュー・ジャズ運動の先頭を走る1人となったこともある。その後、ヨーロッパでピアノ演奏に専念しながら滞欧生活を経た直後の60年代末から70年代初めにかけては、親しい交友関係をもったアネット・ピーコックとともにシンセサイザーを通した新しい電化音楽への探究を始めたりしたが、『Closer』や『Barrage』などのESP盤をはじめ、『Touching』(Debut)、『Blood』(Fontana)など、揺れ動く60年代の時代スピリットと上昇気流に乗って意気軒昂ぶりを発揮しつつあったころのブレイを知る者にとっては、たとえそれが彼の音楽的滋養にプラスに働いたことを認めるとしても、私には彼のシンセサイザー遊びは裏切りとしか写らなかった。この約1年後に彼がソロで録音した1作が、4年数ヶ月ぶりのECM吹込作『オープン、トゥ・ラヴ』である。私にはこの1作はアコースティック・ピアノへの静かなる帰還のように感じられた。これ以後、年を経るごとにアコースティック・ピアノへの回帰がはっきりする。

 

さすらいのジャズ・ピアニスト

 なぜブレイを追悼する一文に、彼の歩みをたどるようなことを敢えてしたか。答えはいたって簡単だ。すなわち,もしポール・ブレイがジャズ界の吟遊詩人だといったら、大げさなことを言うなと一笑に付されるかもしれないが、しかし、ビ・バップ、モダン・バップ()、フリー・ジャズ、シンセ・ミュージック、アコースティック・ピアノ音楽と渡り歩いてきた彼は文字通りの吟遊詩人といってもいいと信じるからだ。むろん西アフリカのグリオや琵琶法師のような吟遊詩人でないことは論を待たない。さまざまな音楽上のカテゴリーを冒険してきたブレイはジャズ界の吟遊詩人であり、抒情詩人という通り一遍のレッテルを貼る気には私はなれない。言葉をかえれば、ブレイはジャズというジャンルにおける表現活動の漂泊者だったとさえいってもあながち言い過ぎではないだろう。

 先だって、朝日賞(朝日新聞)を受賞した金子兜太が授賞式で自己の俳句人生を振り返って言った。「私は存在者の魅力を俳句にしてきた。存在者とは生の人間、率直にものを言う人のこと。そこにこそ知的野生がある」と。その瞬間、なぜかポール・ブレイの顔が浮かんだ。思えば、彼も脳裏で反芻させながら感覚のフィルターで漉しとってはいるものの、知的野生の主としてジャズ界を闊歩してきた表現者だったのではないか。

 私は70年代の初め、幸運にもオスロ(ノルウェイ)のレインボー・スタジオで、リッチー・バイラーク&ジョン・アバークロンビー・トリオの吹込に立ち会う機会に恵まれた。技師はむろんヤン・エリック・コングスハウク。2人が時間をかけて協議し、マイクをセッティングしながら、つぶさにピアノやギターの音をどう捉え、全体の音作りを進めるべきかをアイヒャーが最後に決断するまでのプロセスを観察することができた。思えばブレイの『オープン、トゥ・ラヴ』はこのときの録音風景とさしたる違いはなかったろう。それから約30年後の2001年4月、ブレイは慣れ親しんだスタインウェイではなくベーゼンドルファーで30年ぶりのソロを吹き込んだ。New Seriesの録音で名手アンドラーシュ・シフが演奏したベーゼンドルファーの音にぞっこんだったアイヒャーが、ブレイにも同じオーストリアの都市モントゼーでベーゼンドルファーを演奏する機会を設けたのだ。こうして誕生した『ソロ・イン・モントゼー』が素晴らしく、私はこれに続くソロを熱望した。だが、それはついに夢で終わった。

 ブレイは演奏の傍らボストンの名門ニューイングランド音楽院で教鞭を執るようになったが、世界を股にかけて活躍する藤井郷子は彼の教えを受けた1人。ブレイは1999年の来日演奏の最後(埼玉県狭山)を、ブレイを敬愛してやまない彼女との2台ピアノの演奏で締めくくった。藤井郷子にとっても生涯忘れられない1日だったろうが、わが国の愛好家にとっても印象深いブレイの来日ではあった。ポールよ、安らかに(合掌)。

(*)1963年のある時期、ブレイはマイルス・デイヴィスソニー・ロリンズの両巨人からオファーを受けた。返事を躊躇している間にマイルスがハービー・ハンコックと契約を交わしたため、ブレイはやむなくロリンズのもとに加わって63年9月の来日演奏のため初めて日本の土を踏んだ。

 


Paul Bley(ポール・ブレイ)[1932-2016]
1932年、カナダ生まれ。ジャズ・ピアニスト。ジュリアード音楽院で作曲と指揮を学んだ後、1950年代にデビュー。当初は伝統的なピアノを弾いていたが、50年代半ばから前衛的なスタイルに転身。1964年には〈ジャズの10月革命〉に参加。1960年代のフリー・ジャズ・ムーブメントに貢献したことで知られる。その後も音楽性を変遷させながらツアーや録音を続けるが、2016年1月3日、アメリカ・フロリダ州の自宅にて死去。享年84。

 


寄稿者プロフィール
悠 雅彦(Yuh Masahiko)

1937年、神奈川県逗子市生。早稲田大学文学部英文科卒。在学時は同大のハイソサエティ・オーケストラ部に属し、卒業後北村英治クィンテットなどで歌手活動。68年に執筆活動に転じ,スイング・ジャーナル誌等へ執筆。75年に自主レーベル〈ホワイノット〉を設立し、ジョージ・ケイブルス、チコ・フリーマン、辛島文雄らの初リーダー作をプロデュース。朝日新聞のコンサート評を担当。著書に「モダン・ジャズ群像」、「ぼくのジャズ・アメリカ」、「ジャズ~進化・解体・再生の歴史」(以上音楽之友社)、共著に「ジャズCDの名盤」(文芸春秋)がある。