(C)Gavin Evans

 

人生のリアリティーと、彼女自身の真実

 ひとは多面的な宇宙である。その多様性を繋ぎとめるものが強い感情や想像力であり、多様なタッチから生み出される色彩に溢れる響きだということを、カティア・ブニアティシヴィリのピアノは個性豊かに物語る。繊細な感受性と知覚、彼女自身の自由と確信のもとに。

 《展覧会の絵》、《ラ・ヴァルス》、《ペトルーシュカからの3章》を広大な画布とした新作アルバム『カレイドスコープ』は、奇矯な幻想や冒険のスリルを生々しく抱きながら、そこに優美でやわらかな感情も含めて、すべての歩みを人間的に引き受ける生の燃焼が鮮やかだ。

KHATIA BUNIATISHVILI カレイドスコープ Sony Classical(2016)

 「『カレイドスコープ』というのは私にとって、リアリティーの深部を考えるとてもカラフルな方法。喜びや祝祭感に満ちた人生の様相は、現実の悲劇的側面を隠すものだから。3作の物語はすべて、悲劇的で深く込み入った内実に根ざしながら、それを非常に色彩豊かな方法で示している。音楽はカラフルだけど、内なるリアリティを意味するジャケットの絵はダークなものにしたの」

 どの作品もある種の悲劇性や幻滅、あるいは劇的な失敗の感覚を抱いている。

 「そう。それぞれに悲劇を見出すことができる。ペトルーシュカでさえ、最後には愛のために犠牲となって死にます。けれど、人生の喜びや祝祭、踊りは止まることなく続いていく。そこに個人的な悲劇と全体としての幸福がある」

 どの曲の演奏でも、目くるめく光景と、そのなかを主人公的に進む心境が重なって、聴き手に作品の奥行きを感じさせる。

 「まさにそれが私のアルバム全体のコンセプト。リアリティーの観方だけれど、人生になにかが起こることと、それをどう受け止めるかというのは、かなり違う。なにひとつ変わらないから、カレイドスコープを手にして色彩ある世界を創りだす。どんなペシミストでも、小さな希望をどこかに隠しているものだと思う。求めるなら現実も変え得るのではないかという望み、そうした希望の瞬間は脳裏にただ1秒だけ浮かぶものかも知れない。だけど、そうした瞬間を捉えて、そこからすべてを築き上げていくことが大切なの。あらゆることが悪い方向に働くときにも、それ以外に私たちに選択肢はない。状況に適応して悲観主義に留まるならば、なにも事態は変わらずただそのまま過ぎていくだけ。その希望も絶望の表現だから、信じてはいないけれど、そこから希望を受け容れられるように私は働きかける。でないと生きていけないし、なにかを変えられるのだとしたら、それしか方法はないから。生きていくには、こうした希望と踊るしかないのよ」

 楽器に触れているときは、大海の魚のようなもので、自然に身体の記憶が泳ぎ始める、と彼女は言う。それにしても、ずいぶん奇妙な色の、野心的な魚ばかりつかまえたものだ。

 「そう。私のかわいいモンスターたち(笑)。醜さとともに美しさがある。うまく言えないけど、なにか自分の赤ちゃんを抱くみたいに、素敵な気持ちになるの。形式という意味では怪物みたいに困難で、奇矯なかたちをしている。コントロールできないのに、バランスを保たないといけないのね。ディテールは非常に大切だけど、同時に巨大な奇妙な形式がこれまであまり経験したことのないほどの自由なドラマへと導いてくれる。形式そのものがストーリーを通じて変わっていくわけから、自分が望むように変えて、演奏者固有の形式観を与えることができる」

 ムソルグスキーラヴェルストラヴィンスキー―3者3様に結びつきと、隔絶のある天才たちだ。

 「私は作曲家と真実の関係をもっていると思う。楽譜に遺された音楽言語に、彼らの個性と宇宙を見出していく。そして、自分自身の真実を、音楽のなかに発見する。ストラヴィンスキーだってピカソと同じように、深い背景と巨大な経験の基礎のうえに、新しいものを発明した。だから、複雑で、奇矯なのに、作品は確信に充ちている。3人とも物事を描き出す特別な方法をもっているから、私の想像力を豊かにしてくれる。頭のなかのスイッチをつけて、ファンタジーをクレイジーなほうへ広げてくれるの。奇矯で、ビザールな方法で。そこが共通していて、あとはみんな大きく違ってる」