COLUMN

写真家でありブラジルの農民でもあった大原治雄の写真展が開催、家族や農民としての日常を被写体に表現し続けた姿を追う

朝の雲、1952年 パラナ州テラ・ボア
(C)Haruo Ohara/ Instituto Moreira Salles Collections

 

切り開かれた大地を切り取る視線の追憶へ

 朝日に浮かび上がったむら雲をバックに、タバコをくわえた農夫が鍬を指先に立てたバランスをとっている。日々の労働の隙間に挟まった遊び心。一瞬訪れた穏やかな時間が、この一枚から伝わってくる。

 この作品を撮影したのはブラジルのなかでも日系人が多いパラナ州、ロンドリーナで暮らした大原治雄(1909~1999)という写真家だ。しかし大原は17歳で家族とともにブラジルに渡って以降、ブラジルの農業を進化させた農民の一人として、晩年は事業家として生涯を送り、一度も職業写真家だったことはなかった人物だ。

 50年代以降、いくつもの国際写真展に入賞し、70年代以降には徐々にその名を知られるようになってきたものの、初めての大規模な写真展が開催されたのはその生涯が終わる寸前だった。そして彼の死後、大原が残した膨大なフイルムやプリント、そして遺品や資料がブラジルの写真、音楽、文学、映像のコレクションをしているモレイラ・サーレス財団(IMS)に寄贈され、2008年の日系移民100周年に合わせて回顧展が開催された。その後、その生誕100年に合わせてIMSがブラジル各地で回顧展を行っている。今回、高知県立美術館、伊丹市立美術館、清里フォトアートミュージアムを巡回する写真展は、その回顧展がきっかけだ。またそれに先立ち、2015年にはNHKがドキュメンタリーを収録、放映しているが、広く大原が紹介されたのは、このときが初めてだった。

 繰り返しになるが、大原は一人の農民であり、伴侶である幸(こう)との間に9人の子どもを授かった大家族の家長であり、そして地元の名士でもあった。そんな彼の生活の中に写真が潜り込んできたのは、結婚式で撮影をしてくれた写真師からカメラを売ってもらったことがきっかけだったという。最初の被写体は最愛の妻、幸だった。初めての一枚に写るオレンジの木の隣に作業着姿で立つ彼女の表情には、若干の戸惑いとぎこちなさが見える。服の汚れには農園での辛い労働が滲むが、レンズを向けているこの時間は、夫妻の安らぎのひとときであり、日々の労働の向こうに溢れる希望が待つことを感じていたことが、幸の表情から読み取れる。

 初期の大原が被写体としたのは、農民として日々出会うもの全てだった。子ども達や農夫仲間。農園の風景や移住地の演芸大会の様子など。そこに写り込んでいる人々の表情はどれも穏やかで、希望に満ちている。搾取され、虐げられた者のそれではない。時折出てくる家屋の様子から推測すると、農園の経営も軌道に乗った時期だとは思うが、といって、労働が免除されたわけではない(もっとも、ブラジルの誰もが認める勤勉な日系人達は、仮に免除されてもせっせと働くだろう)それでも彼らの表情には種をまくときの希望があり、そして収穫のときの喜びがある。それはやがて家族で暮らすことへの喜びへとつながっていく。

治雄の甥・眞田エリオとイチジクの木、1955 年 パラナ州ロンドリーナ
(C)Haruo Ohara/ Instituto Moreira Salles Collections

 さて、こうした大原の作品を、戦前移民の「記録」と言い切るのは簡単だ。しかし大原の写真には、そんな軽口をたたかせないだけのなにかがある。何気ない風景に見えるが、それを増幅する「演出」が見え隠れする。もちろん大原の写真術は独学だ。手ほどきをしたと言えばカメラを譲った写真師のジョゼ・ジュリアーニ(移動写真屋としての仕事をしつつ、農地の開発を行う北パラナ土地会社の社員だった)くらいだろう。作品のなかには、大原がその頭の中で構築したイメージを具現化するため、何度もシャッターを切った痕跡が残る作品もあるだけに、被写体を見つけては、常に「表現」を試みていた様子が推測できる。大原の表現活動への渇望のようなものが、作品を通して伝わってくる。

 こうした大原の作品(特に初期の農園でのシリーズ)を見て、植田正治の作品を思い起こす人は多いかと思う。年代で見ると大原の方が若干前だし、何しろ日本とブラジルだから直接の影響はあり得ないはずだ。植田が砂丘をカンバスにイメージを作り上げていったのに対し、大原は自分たちの生活を支える大地と、限りなく広がる空をカンバスにイメージを配置して空間を創り上げた。ただ、植田の砂丘は抗いようもなく、そこにはじめから在ったものだが、大原の大地は彼らがその手で切り拓いたものだ。それが植田作品に見られる洒脱さと、大原作品の泥臭さの差になってくるのではなかろうか。

 さて、せっかく農園を軌道に乗せた大原一家だが、ロンドリーナ市の発展に伴い農場一帯の土地が空港用地として接収され、市街地に居を移すことになってしまう。この時期以降、大原はサンパウロ屈指の写真クラブに参加し、作品をコンテストに出品するようになる。自分の持ち物である農地や親戚の農園などで作業の傍ら撮影を続けつつも、かつて自分たちが拓いた農地が街へと変貌する様を克明に追いかけている。向こう側に工事現場があるのか、高い塀からのぞき込む親子とおぼしき二人を撮ったものや、整備が悪くぬかるんだ道にはまってもがく男を撮った作品などは、大原の観察眼にかかった「決定的瞬間」というべき作品だ。

 さらに自宅に小さな暗室を作り、写真にますますのめりこんでいった大原は、独特の造形美を見せる植物や、ミニマル・ミュージックを思わせる、イメージの連続など、抽象的な作品を発表していくようになる。

 今回の巡回展では、ほぼ50年代までのモノクロ作品が出品されている。70年代に続いてやってきた不幸に見舞われた大原は、79年頃に暗室を閉じて、その後はカラー作品だけを手がけていたという。IMSに寄贈されたのはモノクロ作品以上に点数があるカラー作品も含まれているが、それらはこれから日の目を見ることを待つしか無い。ただ70年代の大原の転機のひとつには、長年連れそった妻、幸が病に倒れ、先立ってしまったことがあるだろう。このとき大原は数ヶ月間自室にこもり、9人の子ども達に、妻や子どもたちそれぞれの写真を収めたアルバム帖を作って渡したという。専業の写真家ではなかった大原にとって、この作業は9人にだけ向けた初めての個展だったのかもしれない。

 1999年。大原はこの世を去る。初めての大規模な個展がロンドリーナ国際フェスティバルの一環として開催されたのは98年のことだったが、当時すでに大原にはアルツハイマー病に冒されていた。その死後に大原の伝記が出版され、先述したようにIMSに寄贈された作品がブラジルで紹介され、日本でも大原の出身地である高知を含めた三カ所で巡回されている。17歳で高知を発った大原の里帰りは、90年近く経ってようやく実現した。

 100年以上前に、数多くの日本人がブラジルに渡っていったことなど、現代の日本人は忘れているかもしれない。しかし、20世紀初頭以降の移民たちは、その先々で大きな実績を残してきた。さらにその中には、数多くのユニークな人物が紛れ混んでいたが、大原もまた突出した才能の持ち主のひとりだったと言えるだろう。

 地球の反対側で、鍬を振るいながら「表現」を追い続けた写真家がいた。大原治雄。生活の中から生まれたイメージをその目で感じていただきたい。

 


大原 治雄(Haruo Ohara)[1909-1999]
1909年、高知県吾川郡三瀬村(現・いの町)に農家の長男として生まれる。17歳で家族とブラジルに渡り、サンパウロ州のコーヒー農園で働いた後、1933年パラナ州ロンドリーナへの最初の開拓団として入植。農作業の合間に小型カメラで撮影をはじめ、その後独学で学ぶ。1970年代に注目されだし、1998年に開催された個展「Olhares(眼差し)」展は大きな反響を呼ぶ。1999年ロンドリーナで永眠。享年89。日本人ブラジル移民100周年となる2008年、遺族により写真と資料の一式が、ブラジル屈指の写真史料アーカイヴズであるモレイラ・サーレス財団に寄贈された。

 


寄稿者プロフィール
渡部晋也(Shinya Watabe

1965年東京生まれ。90年代初めのブラジル暮らしをきっかけに執筆を開始。その後、舞台写真家としても活動する。ブラジル、ラテンアメリカの音楽から、ジャズ、日本の伝統音楽などを守備範囲にしている。(公社)日本写真家協会、日本舞台写真家協会会員。

 


EXHIBITION INFORMATION

「大原治雄写真展 ─ ブラジルの光、家族の風景」
○10/22(土)~12/4(日)
10:00~18:00(入館は閉館30分前まで) 12/1~4は10:00~17:00
休館日:火曜日(祝日の場合は開館)*12/5より冬期休館
会場:清里フォトアートミュージアム

写真家・平間至によるギャラリートーク
○11/12(土)14:00~15:00
入館料のみ/予約不要
www.kmopa.com/

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