1枚目の柴田南雄『ゆく河の流れは絶えずして』から50枚目。そしてさらに51枚目へ!

 1989年1月7日、昭和天皇が崩御した。翌日、元号が平成に代わった。その4日後の1月12日。上野で東京都交響楽団の定期演奏会があった。指揮は若杉弘。メイン・プロは柴田南雄(1916~1996年)の交響曲『ゆく河の流れは絶えずして』。1975年完成の超大作。1973年の石油ショックの前後からの終末論流行時代を極度に反映する。1999年に人類は滅亡する! ノストラダムスの予言がまことしやかに語られたのはこの時代だ。柴田の交響曲ではオーケストラに合唱が付き、鴨長明の「方丈記」を歌う。自然災害と人災の描写が続く。「方丈」とは狭い庵のこと。そこにこもって無理をせず、守りの姿勢に徹して生き延びるしかない。それが「方丈記」の戦術だ。20世紀から21世紀へ。進歩主義の甘い夢は打ち砕かれ、危機と混乱が慢性化してゆく。「ゆく河の流れは絶えずして」はそういう気分を表す音楽なのだ。戦後日本の傑作のひとつだ。

 この曲の1989年の都響ライヴのCD化。フォンテックの「現代日本の作曲家」の1枚目である。1992年発売。以来、シリーズはたゆみなく継続して四半世紀を経た。バブル崩壊後の平成の時代によりそうように続いてきた。平均で年2枚の発売ペースを守って。だからついに50枚。フォンテックという小さな会社が鴨長明の「方丈記」を地で行くように危機の時代に耐えながら決して無理をせずに。公的財団の助成金を得ながら着実に。「売れる・売れない」といういま目先の利益にとらわれず、伝える値打ちを最優先して。ライヴ録音や放送録音を活用することでストレートな言い方をすれば制作経費を無理にかけずに。

 目立たないが偉大な事業。本当なら国とかがもっと大きな予算を落としてやるべきとも思う。だが現実はそうは行かない。国などの公的機関にお金がないからというわけではない。バブルが崩壊し、リーマン・ショックがあり、大震災に襲われ、経済成長がほとんどとまっていても、そもそも日本経済の規模はじゅうぶんに大きくなっていたし、まだ今のところ、その規模はそれなりに保たれている。

 つまり、無いのはお金ではない。コンセンサスなのだ。欧米でも近現代のクラシック音楽の作曲家のCDを作っても儲からないのが当たり前。それでも欧米の多くの国々で、経済の状態もよくないにもかかわらず、日本よりもその種のCDが相変わらずたくさん作られている理由は何か。クラシック音楽が自国の伝統文化であり、作曲という分野はその根幹というコンセンサスがあるからだろう。それを聴く人がたとえ少なくても、作曲が同時代的に続かなくなったら、それは文化の死滅を意味する。その合意が最低限の線ではあるから、儲からない近現代音楽CD制作のためにも依然としてお金が回る。

 ところが日本ではいつまで経っても西洋クラシック音楽は外来文化。クラシック音楽の歴史をふまえながらいろんなスタイルの音楽が作られていることがこの国の文化の質を保証するという考え方は、極めてマイナーなものに属する。無くなって困るとは、マジョリティは思っていない。もしかすると、そういう分野があることすら多数派は知らない。

 だからいつまで経っても「方丈記」。危機にさらされながらマイナー・レーベルという孤塁か草庵にこもって無茶に攻めず身を守りながら続けられるかたちで続けてゆく。その姿勢に徹したからこその50枚だと思う。もちろん攻めに転じられれば、それに越したことはない。でも当たって砕けるより持久戦の方が大切だ。1枚目が「ゆく河の流れはたえずして」だったのは伊達ではない。象徴的意味がある。危機はこれからなお深まるだろう。それでもさらに51枚目以降へ。日本レコード界の鴨長明、フォンテックならまだまだやれる。持続は力なり。真の革命戦は持久戦なり。