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【IN THE SHADOW OF SOUL:ソウル・ミュージックの光と影】[第101回]オハイオ・プレイヤーズ~Pファンク軍団を渡り歩いたファンク界の奇才・ジュニーの魂

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  • 2017.07.21
【IN THE SHADOW OF SOUL:ソウル・ミュージックの光と影】[第101回]オハイオ・プレイヤーズ~Pファンク軍団を渡り歩いたファンク界の奇才・ジュニーの魂

2017年1月21日、スピリットは星になった。謎めいた存在感を放ちながらオハイオ・プレイヤーズ~Pファンク軍団を渡り歩き、ファンクの未来を創造したウォルター“ジュニー”モリソン。真の奇才にして本物の異能、20世紀の最重要ファンカーに最敬礼を!

 変態ファンク。その音楽をしてそう評されるジュニーことウォルター・モリソンは、オハイオ・プレイヤーズとPファンク軍団に籍を置いたマルチ・プレイヤーである。オハイオ・プレイヤーズの“Funky Worm”、ファンカデリックの“One Nation Under A Groove”や“(Not Just)Knee Deep”という、ファンクの傑作にして、後に定番サンプリング・ソースとなる曲を中心になって作った人物といえば、その偉大さがわかるだろう。

 2017年2月に訃報(1月21日に62歳で他界)が伝えられたジュニーだが、デイム・ファンクは2015年作『Invite The Light』で“Junie's Transmission”などにジュニー本人を招き、ソランジュは2016年の最新作『A Seat At The Table』でジュニーのレア音源“Super Spirit”をヒントに作ったオマージュ曲“Junie”を披露するなど、晩年まで愛され続けた男だった。訃報とほぼ同じタイミングで発表されたニコラス・ペイトンの『Afro-Caribbean Mixtape』には“Junie's Boogie”というトリビュート曲も収録。ソランジュやペイトンの楽曲ではジュニー独特のウニョウニョした鍵盤の音色が再現されていたが、そのよじれたサウンドや粘着質なヴォーカルの猥雑さや突飛さから〈変態ファンク〉なる呼び名がついたと思われる。

 生まれ故郷のオハイオ州デイトンをファンクのメッカにしたひとりと言っていいジュニー。ファッツ・ドミノを好んだ彼は5歳の頃から教会でピアノを弾きはじめ、幼少期にテネシー州で暮らした関係もあってか、カントリー&ウェスタンのバンドでも演奏。オハイオに戻り、10代半ばだった70年に、ウェストバウンドから再出発したオハイオ・プレイヤーズに加入している。さまざまな楽器をマスターしていた彼だが、シュガーフットと才能を分け合ったグループでは鍵盤を担当。この時期に生まれたのが“Funky Worm”で、ミミズが穴から出入りする動作を表現したとされるシンセ音はジュニーのシグネイチャーとなり、後にGファンクのトレードマークにもなった。

 オハイオ・プレイヤーズは74年にマーキュリーに移籍するが、73年にソロ活動を始めていたジュニーはウェストバウンドに留まり、75~76年にかけて、モーグやクラヴィネット、トークボックスなどを駆使した3枚のソロ・アルバムを発表。75年の初ソロ作『When We Do』のジャケットではグループ時代と同じくスキンヘッドの女性が絡んでいるように、レーベルからはその音楽性やスピリットを受け継ぐ存在として期待されていたのだろう。ファンクネスを持ちながら哀愁を漂わせ、予測不能でトリッピー。オハイオ・プレイヤーズでは収まり切らなかった個性は、交通事故による一時休業を経て、ジョージ・クリントン率いるPファンク軍団でさらに開花する。

 バーニー・ウォーレルと実力を二分するユニークな鍵盤奏者/ヴォーカリストとして78年にPファンク軍団入りしたジュニーは、パーラメント/ファンカデリック双方の作品に関与し、特にファンカデリックには、それ以前のサイケデリック・ロック的な方向性とは異なる腰の浮き立つようなダンス・グルーヴを注入。冒頭で触れた“(Not Just)Knee Deep”では作者として本人だとわかるようにクレジットされることはなかったものの、ビートボックスでベーシック・トラックを作ったのはジュニーだとされ、クリントンの右腕として軍団の中核となっていく。クリントンは自伝(『ファンクはつらいよ ジョージ・クリントン自伝 バーバーショップからマザーシップまで旅した男の回顧録』)で、ジュニーを当時の最重要メンバーだとし、「仕事仲間としても最高だ。彼はあらゆることができた。それに、こちらが大雑把でも、彼は几帳面だった」と絶賛しながら、スライやプリンスと並べて「孤高の天才という枠にはまる危険に晒されていた」と、マルチに楽器をこなしてひとりで作業するがゆえに没個性になりがちな危うさがあることも指摘しながら、ジュニーの奇才ぶりを褒め称えていた。

 80年代にはクリントンのソロ作やPファンク・オール・スターズの作品に関わりながら、コロムビアからソロ・アクトとして再出発。2枚のアルバムを出した後、84年にはアイランドから『Evacuate Your Seats』を出してエレクトロに接近するなど、新しいムーヴメントとも絡んでいく。90年代にはUK勢との仕事が増え、ミーシャ・パリスが歌う映画「ヤング・ソウル・レベルズ」(91年)のテーマ曲や、ソウルIIソウルの『Volume V -Believe』(95年)でグラウンド・ビート調の“I Care(Soul II Soul)”などをプロデュース。自身の活動としては2004年にソロ作『When The City』で変態ファンクのアップデート版を聴かせ、晩年にはボーイインシーというアブストラクトなプロジェクトを始動させてアルバムもリリースしていた。音色はアップデートされてもファンク道は見失わず。いわゆるショウビズ的な華やかさやスター性とは無縁であったが、才気漲るファンカーとしてスライやプリンスと同じように多くのシンパを生む理由がわかるというものだ。 *林

ジュニーのオマージュ曲を収めた作品。

 

ジュニー参加作を一部紹介。

 

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