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希望なんて存在しない

 87年の解散から遡ること5年。スミスが誕生した82年の英国では、マーガレット・サッチャーの打ち出した〈サッチャリズム〉と呼ばれる政策が推し進められていた。事業民営化と規制緩和、公共投資の抑制、社会保障の支出拡大、そして消費税率の引き上げ――79年に始まったこの経済政策は首都ロンドンに富の一極集中をもたらし、地方を疲弊させていく。造船所や製鉄所、炭鉱の閉鎖が相次ぎ、失業率は急上昇。84年には12%にまで達した。当時の閉塞感は映画「リトル・ダンサー」や「フル・モンティ」、「パレードへようこそ」からも窺うことができるはずだ。かつての産業革命の中心地となった工業都市のマンチェスターにも不況の嵐は襲い掛かり、共に労働者階級のアイルランド人を両親に持つモリッシー(ヴォーカル)とジョニー・マー(ギター)が、現実社会に明るい未来や希望を見い出せず、音楽に没頭していったことは想像に難くない。そんな2人が出会ったのは78年。場所はパティ・スミスのライヴ会場だった。後にシアター・オブ・ヘイトやカルトで活躍するビリー・ダフィからモリッシーを紹介されたマーは、モリッシーの書く歌詞に感銘を受けてバンド結成を思い描くようになる。60年代のポップスやロックンロール、70年代のグラム・ロックが好きという互いの共通項を確認した2人は、知り合って4年後にアンディ・ルーク(ベース)とマイク・ジョイス(ドラムス)を迎え、英語圏でもっとも平凡なファミリーネームのひとつを掲げて本格的に活動を開始するのだった。

 景気は最悪だったマンチェスターだが、音楽シーンは活況を呈していた。職のないワーキングクラスの若者たちにとって地元のファクトリーがリリースするレコードと、同レーベルが運営するクラブ・ハシエンダは、厳しい現実を忘れさせてくれる一時のシェルターになっていたのだ。モリッシーとマーはファクトリーのオーナーであるトニー・ウィルソンにデモテープを渡すも契約には至らず(後にトニーは〈人生最大の失敗だった〉と後悔している)、EMIなどメジャーからも門前払いを喰らう。そんななか、ある男が4人に手を差し伸べた。そう、ラフ・トレードを主宰するジェフ・トラヴィスだ。ジェフは83年5月にシングル“Hand In Glove”でバンドをデビューさせ、その直後、過去には単発契約しか結んでいなかったラフ・トレードが初めて複数枚の契約をスミスと交わすことになる。“Hand In Glove”の反応は芳しくなかったが、続くセカンド・シングル“This Charming Man”とサード・シングル“What Difference Does It Make?”は全英チャートでそれぞれ25位と12位にランクイン。一躍、注目株として騒がれるようになっていった。

 84年2月にはファースト・アルバム『The Smiths』を発表。当初は元ティアドロップ・エクスプローズのトロイ・テイトをプロデューサーに迎えてレコーディングしていたが、メンバーがクォリティーに納得せず、ロキシー・ミュージック作品で腕を振るったジョン・ポーターを代役に起用して完成まで漕ぎ着けている。制作過程で紆余曲折はあったものの、同作は全英2位を記録。新人では破格のこの成績は、独自の視点で切り取った日常の出来事や社会問題を鮮烈に歌うモリッシーの姿が、人には言えない悩みや怒りを抱えていた若者から広く共感を集めた結果だろう。もちろん、カルチャー・クラブやデュラン・デュランらカラフルで享楽的なシンセ・ポップが全盛の時代に、粗削りながらも心の琴線に絶えず触れるマーのギター・リフが新鮮に響いた、というのも人気に火が点いた大きな理由。そうした好況をキープしようと、同年11月にはBBCのセッション音源とアルバム未収録のシングルをまとめた編集盤『Hatful Of Hollow』もリリースされている。

 当時はまだ差別視されていたゲイを楽曲のテーマにしたり、IRA(アイルランド統一を掲げて北アイルランドを英国から分離させ、凄惨なテロ行為を繰り返した武装組織)への支持を匂わせたり、バンド・エイドと発起人のボブ・ゲルドフを痛烈に批判したりと、モリッシーの歌詞や言動は常に注目されていたが、85年2月に登場したセカンド・アルバムのタイトルで彼はさらにセンセーショナルなメッセージを打ち出すことに。それが『Meat Is Murder』。〈肉食は殺人だ〉という身も蓋もないこのタイトル、日本盤の帯には〈肉喰うな!〉と赤文字で大書されていた(言わずもがな、INUの81年作『メシ喰うな!』のもじりで、両アルバムはかつて同じレコード会社からのリリース)。よりアイロニカルになって表現力が高まっていたモリッシーの言葉と、水を得た魚のように活き活きと変幻するマーのギターによって作品の完成度は上がり、見事に全英1位をマーク。各メディアが発表するその年のリーダーズ・ポールでも上位を独占した。