THE RAIN FALLS HARD ON A HUMDRUM TOWN
スミスを育んだ〈退屈な街〉のロックは、なぜこんなにも人々の心を掴むのか?

 マンチェスター産のロックには、明確な共通の特徴があるわけじゃない。強いて言えば、それはロマンスやユーモアやメランコリーなのかもしれないが、同地のシーンを俯瞰した時に浮かび上がるのはむしろ、個性豊かな表現を育むオープンマインドさと、それを支えるコミュニティーの熱意、地方から全国制覇をめざす野心といった気質だろう。何しろ、イングランド南部の都がロンドンなら、北の都マンチェスターは東京に対する大阪みたいなもの。労働運動と左翼政治の発信地でもあり、徹底して〈アンチ中央〉〈アンチ権威〉のスピリットに溢れた街なのである。

 そんなマンチェスターの名が音楽地図に刻まれたのは、ハーマンズ・ハーミッツやホリーズの登場した60年代だが、独自の主張を始めたのはポスト・パンク期だ。76年6月、この街最初のパンク・バンドと言われているバズコックスの招きで実現したセックス・ピストルズの初公演が起爆剤となり、そこに居合わせた若者たちがジョイ・ディヴィジョンやフォールを結成。一気に活性化したシーンに、TV局のプレゼンターとして活躍していたトニー・ウィルソンが目をつけて、インディー・レーベルのファクトリーを78年に設立し、地元バンドを次々とデビューさせる。

 それから5年後に現れたスミスはファクトリーじゃなく、ロンドンのラフ・トレードと契約したが、モリッシーの歌詞にはマンチェスターの風景が散りばめられ、故郷への愛憎が交錯する曲世界は、まさにロマンティックでユーモラスかつメランコリック。ある意味、どれもマンチェスターへのトリビュートだ。

 そして80年代末、ロックとアシッド・ハウスをいち早く融合させたのもマンチェスター勢だった。ストーン・ローゼズやハッピー・マンデイズが英国中を踊らせ、90年代にはオアシスがダンスの世界からロック側にエネルギーを奪還。続いて、ダヴス、アイ・アム・クルート、エルボーなどが実験性と歌心が同居するアート・ロックを鳴らしはじめ、オアシスの解散に伴い、マンチェスターの顔役はエルボーへと交代。さらに彼らの背後には、エヴリシング・エヴリシングやThe 1975ら雑食性をデフォルトとする世代が控え、正統派ならば頭一つ抜けたコーティーナーズのほか、スプリング・キングとブロッサムズも将来有望と言えるだろう。