大地の素材を手に、究極の〈色〉を探し求めるチェリスト、ジャン=ギアン・ケラスはどこへ行く?

 ベートーヴェンのソナタをアレクサンドル・メルニコフのピアノで弾いたかと思えば、中東音楽に幼なじみの民族楽器奏者と興じたり、ダンサーとJ・S・バッハの組曲をコラボレーションしたり……。1967年モントリオール生まれのチェロ奏者、ジャン=ギアン・ケラスのディスクやライヴは長年、私の心をとらえてきた。50歳。そろそろ〈巨匠〉と呼ばれる年齢に達するまで、一度もインタヴューの機会に恵まれなかった。チェコ・フィルハーモニー管弦楽団とドヴォルザークの協奏曲を共演するツアーの合間を縫って実現した初対面。「思ったより老けていて、びっくりしたでしょう?」と、屈託無く笑う。実に愉快な男だった。

「何故そんなに自由な発想、縦横無尽の活動が可能なのですか?」と聞いたら、「クレージーなスイッチが、いつも自然に入ってしまうのです。最初は14歳。作曲の勉強をしている友人とあれこれ、動物が自分自身を鍛えるようにして実験を重ね、新しいアイデアを膨らませていく術を身につけました。元から、古典名曲だけのキャリアではありません。20歳でサン=サーンスを弾かなければならなかったとき、幸せとは思えなかったほどです。23歳でピエール・ブーレーズが創設したアンサンブル・アンテルコンタンポランに加わっていよいよ、ブーレーズやリゲティ、マントヴァーニら同時代の“他者”が創造する宇宙に入って行く喜びを自覚しました。やがて古典でもダンサーら異分野のクリエイターと組むことで、新たな視界が開ける感触を体験。サン=サーンスに関してはある日、ヨー・ヨー・マのインタヴューをみていたら、『なぜ深みのない作品を弾くのか』との質問に対し、『すべての作品が深遠である必要はない』と切り返していて、腑に落ちました。より表面的な作品が存在する必然性を初めて、意識した瞬間でした」

 メルニコフとの共演では作品に応じ、2人とも、モダン(現代仕様)楽器とピリオド(作曲当時の仕様)楽器を弾き分けている。

「バロック音楽の分野では1960年代以降、古典派の左右対称的な様式美からの呪縛が解かれ、不安定な音楽、不安定な再現への再評価が進みました。その発想はやがて、ロマン派の解釈にも広がり、特にシューマンのように人間としての危険、不安を抱えていた作曲家の屈折した音世界を描くには、ピリオド楽器の〈心地よくない〉響きが適しています。最近、C・P・E・バッハの協奏曲集を録音したのですが、感情過多様式と呼ばれる不均等な持ち味を生かす上で、リッカルド・ミナージ指揮アンサンブル・レゾナンツとの共演は理想的でした。ドビュッシーのソナタの再録音も共演者がアレクサンドル・タローからハヴィエル・ペリアネスに替わった以上に、エラールのピリオド楽器と組み合わせ、異なる色合いを出すためでした。ドビュッシーの方は、まだ組み合わせる作品が確定していないため、アルバムとしての発売は、少し先になりそうです」

 昨年はフランスのプロヴァンス地方で過ごした時期の友だち、ザルブ&ダフ奏者のケイヴァンとビヤンのシェラミーニ兄弟、リラ奏者のソクラティス・シノプロスと組み、ギリシャやトルコ、ブルガリア、イランなど東方世界のメロディを奏でる「トラキアの音楽」を録音し、日本ツアーも実現した。私たちには耳慣れない音楽であっても、ケラスはケラスだった。

「子どものころ3年間過ごしたアルジェリアの音楽も、自分の耳には残っています。エクス・アン・プロヴァンス音楽祭でトラキアの音楽を演奏したとき、民族音楽の大きな国際会議も開かれていて、カイロから来たというヴァイオリニストが聴きにきていました。『もっとグリッサンドを強調して、ヴィブラートもかけて』と彼に助言されたら、リラのソクラティスが飛んで来て『だめだめジャン=ギアン、本物みたいに弾いたら、君の音楽じゃなくなる』と忠告してくれました。どんな場面でも、自分を売ってはいけないですね」

 ありとあらゆる音楽に手を広げながら「ケラスさんは、実は。たった一つの真実を究めようとしての旅ではないですか?」と、問いかけた。

「確かに、そうかもしれない…。僕の両親は陶芸家で、若いころに一度、何とも素晴らしい特別な緑色の焼き物を生み出したことがあります。母が亡くなった後も父は今も同じ配合を何度も繰り返し、その緑の再現を試みるのですが、うまく行きません。大地の素材を手にしつつ、自分ではコントロール不能な美の〈色〉を探し続ける。そんな生き様を僕は音楽家として、両親から受け継いでいるのかもしれませんね」

 大地の素材を丹念に練り上げ、最高の釉薬とともにじっくり焼き上げる――。ケラスのアルバムの1枚1枚が〈手作業〉の誠意に満ち、〈一品料理〉の味わいを放つ背後には、両親から受け継ぎ、自らの器=チェロで育んできた最上の職人気質が貫かれている。