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ロイル・カーナーのラップ・スタイルの秘密

本作と似た作品を一つ挙げるとしたら、それは老いと向き合い〈ラップ・ゲーム〉や〈自己との対峙〉の先にある〈人生〉を歌った、ここ日本のTHA BLUE HERB『LIFE STORY』かもしれない。同作でのBOSS THE MCのラップはそれまでの作風から一転し、あまりにも平易な言葉で本音を綴る〈無防備さ〉により、聴き手から〈そんなの一人でやっていてくれ〉と思われかねないパーソナルなイシューに説得力を持たせていた。一方、ロイル・カーナーはイメージの断片を畳み掛けるように連ねるポエティックなライミングで聞き手が入り込む余白を作り、迫真さを持つ声の響きにより説得力を持たせている。

そういったロイルのラップ・スタイルには、ティーンエイジャーの頃にローランド・エメリッヒ監督映画『紀元前1万年』に出演し、アデルやエイミー・ワインハウス、ケイト・ナッシュらを輩出したロンドンのアートスクール、ブリット・スクールで演劇を学んだというキャリアが活かされているのかもしれない。しかし、それには彼が持つ慈愛に満ちた眼差しの力もおそらく関係しているだろう。ADHDとディスレクシア(難読症)をカミング・アウトしているロイルは、ADHDを持つティーンエイジャーのサポートを目的とした料理教室を開催するなど、チャンス・ザ・ラッパーのように社会への働きかけを行なっている。“No Worries”を筆頭に、聴く者の気持ちをなだめ落ち着かせてくれるような彼の音楽のフィーリングは、そうしたロイルのキャラクターの表れであり、明日も分からぬ混沌とした時代において有効なラップ表現と言えるだろう。

また、内省的ながらも時に控えめなユーモアが混じる、親しみやすくも詩的なリリックは、ラップが現代のフォーク・ミュージックとなっていることの表れかもしない。ジャンルの成熟や規模の拡大に伴い、ラップが扱うテーマは、貧困やゲットーからの脱出、白人社会や世界との戦い、アフリカ回帰といった〈アフロ・アメリカン的〉なるもの以外にも広がり続けてきた。XXXテンタシオンやリル・ピープといった自己の内面世界と向き合う〈エモ・ヒップホップ/グランジ・トラップ〉の勃興は、それまでロックが扱ってきたモチーフがほぼ全てラップに回収されたことの象徴ではないか(そして、アメリカでのセールス規模もロックを凌駕することになった)。

ロイル・カーナーがADHDをもつ14~16歳の子どもたち向けに開催している料理教室〈Chilli Con Carner〉のドキュメンタリー映像

 

UKインディーのムードをまとったラッパー

先ほど、ロイル・カーナーの〈イギリスらしさの乏しさ〉について触れたが、本作『Yesterday’s Gone』がまったくイギリスらしくないかと言えば、決してそんなことはない。アメリカのメインストリーム・ポップスと同じプレイリストに入っても違和感のないワールド・スタンダードなサウンドに、イギリスやアフリカのテイストがスパイスのように加わっている点が現代のグライムやアフロ・バッシュメントの武器ならば、このロイル・カーナーの武器はフランク・オーシャン『Blonde』のような〈インディー感〉ではないだろうか。

彼は前述のブリット・スクールでキング・クルールと同級生かつ友人であり、ジェイミーXXやムラ・マサに続くネクスト・ホープであるトム・ミッシュや、ソランジュやケレラを手がけるクウェズらサウス・ロンドンの盟友たちを本作では起用している。奇抜さや際立ったサウンドの特徴こそないものの、そういった人選は明らかに他のラップ・アルバムとは異なるアトモスフィアを『Yesterday’s Gone』に加えている。使う楽器こそギターからMPCやコンピューターへと変わってきたものの、そこには脈々と続くUKインディー的な〈雰囲気〉を感じ取ることができないだろうか?

『Yesterday’s Gone』収録曲“Isle Of Arran”