ジャマイカを起源とするレゲエが音楽ジャンルとして確立したのは比較的最近のこと。人口300万にも満たないジャマイカだが、その音楽は広くあまねく知れ渡り、ポップやロック、ファンク、ヒップホップ、ジャズなど多くの音楽に影響を与えている。音楽の多くがそうであるように、レゲエの人気は音楽自体の魅力だけでなく、誰がレゲエを受け入れ、取り入れたか。鋭いビジネス・センスから聴衆を育て、レゲエに対する理解を深めたか、といったことから推察することができる。

この後に述べるのは、レゲエを国際的な音楽ジャンルとして育てた歌や人々のリストになる。

 

ミリー・スモール“My Boy Lollipopを紹介したクリス・ブラックウェル

クリス・ブラックウェルはアイランド・レコードを立ち上げた音楽愛好家で、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ、ひいてはレゲエ一般を世界に紹介したことで知られている。

ブラックウェルは英国人でありながらジャマイカで軍役に服した父とコスタリカ出身のセファルディム系ユダヤ人で、イアン・フレミングのボンド・ガール、プッシー・ガロワのモデルになった母の間に生まれた。ジャマイカで育ち、ジャマイカ音楽を愛したブラックウェルは21歳でそれを職業にすることを決意、ジャマイカ音楽のレコーディングとライセンシングを始め、自分の車のトランクにレコードを積むとイギリスのジャマイカ・コミュニティーに売り歩いた。64年にブラックウェルは15歳のミリー・スモールをプロデュース。“My Boy Lollipop”をスカ・スタイル・アレンジで、ギタリストのアーネスト・ラングリンとカヴァーした。この曲が期せずして世界的な大ヒットとなり、600万枚を売り上げる。それ以降、ブラックウェルはスペンサー・デイヴィス・グループ、トラフィック、ロバート・パーマーらとイギリスのロック界にヒットを飛ばしながら、ジャマイカ出身のジミー・クリフなどとも仕事を続けている。73年にはボブ・マーリー、ピーター・トッシュとバニー・ウェイラーのバンド、ウェイラーズが6枚目のアルバム(アイランド・レコードからは2枚目)を発表し、USチャートで151位につける。しかし、彼らの影響は順位よりも更に大きかった。

ミリー・スモールの64年作『My Boy Lollipop』収録曲“My Boy Lollipop”

 

デズモンド・デッカー “007 (Shanty Town)

デズモンド・デッカーは何曲もの人気曲を作り、世界に大きな影響を与えた。最初の曲は67年に発表された“007 (Shanty Town)。この曲はジェームズ・ボンドの輝きを持ち、「オーシャンズ11」の不法者の魅力を持った男の話をロックステディ・スタイルで演奏し、このスタイルを流行の先端とした。UKチャートでは15位につけ、繰り返しカヴァーされている。その後強いジャマイカ訛りで歌われたIsraelitesがヒット。この曲はルード・ボーイ・スタイルとラスタファリ運動について言及していて、UKチャートでは1位、USチャートでは9位になっている。ポール・マッカートニーは後にスカとレゲエ感のあるオブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ”を作曲したが、その主役の一人がデズモンドのため、デズモンド・デッカーへのトリビュートではないかと言われている。

デズモンド・デッカー&ジ・エイシズの67年作『007 (Shanty Town)』収録曲“007 (Shanty Town)”

 

ジミー・クリフ The Harder They Come”

ジミー・クリフがジャマイカで最初のヒット曲を出したのは14歳の時だった。その後、31歳になるまで国際的なヒットは無かったが、69年に自分の名前を冠したアルバム(その後アメリカでは『Wonderful World, Beautiful People』に改題)を海外でも発表。ボブ・ディランはこのアルバムに含まれた“Vietnamを、今まで聞いたなかで1番の反戦歌だと評した。しかし、このレコードは批評家にはウケたが、経済的には大きな成功とは言えなかった。72年の映画「ハーダー・ゼイ・カム」が、クリフの大きな成功に繋がる。彼はこの映画に主演、イヴァンというキャラクターに扮し、“Many Rivers to CrossYou Can Get It If You Really Wantなど彼の曲がサウンドトラックに含まれている。この映画はきついジャマイカ英語訛りのため、英語が母国語の国でも英語の字幕がつけられた。映画自体はカルト的な成功に留まったが、サウンドトラックは大きなヒットとなる。

ジミー・クリフの72年作『The Harder They Come』収録曲“The Harder They Come”