ポール・サイモン “Mother and Child Reunion”
ポール・サイモンはレゲエに影響されたトラック“Mother and Child Reunion”を作曲、録音して72年にナンバーワン・ヒットを記録。この曲は映画「ハーダー・ゼイ・カム」のサウンドトラックと同じ週にリリースされ、アメリカでヒットしたレゲエ・サウンドの最初の1曲となった。サイモンはジミー・クリフとデズモンド・デッカーの大ファンだった。一説によると、この曲を作曲中にペットの犬が死んでしまい悲しんでいた時に、レストランで親子丼をメニューに発見、英語でメニュー名が〈Mother and Child Reunion〉となっていたことから閃いたという。この曲はジャマイカで録音。メイタルズのギタリスト、ハックス・ブラウンや、ジャマイカのセッション・ドラマー、ウィンストン・グレナンが参加した。
トゥーツ&ザ・メイタルズ “Pressure Drop”
トゥーツ&ザ・メイタルズの“Do the Reggae”は、レゲエという言葉を最初に使った曲として世界的に知られている。語源は〈ボロ〉を意味する〈レゲ〉という言葉。この曲によりレゲエのサウンドが確立されたが、当時はもっとギターに重点が置かれ、スカと違ってビートが目立つ構成になっていた。トゥーツ&ザ・メイタルズは島の歌バンドのひとつで、他にも映画「ハーダー・ゼイ・カム」に使われたシングル“Pressure Drop”(後にロバート・パーマー、キース・リチャーズ、イジー・ストラドリン、クラッシュなどにカヴァーされた)や、69年のUKヒットになり後にエイミー・ワインハウス、ノー・ダウト、スペシャルズ、リール・ビッグ・フィッシュ、カイリー・ミノーグなどにカヴァーされた“Monkey Man”など、多くの曲をプロデュースしている。
ジョニー・ナッシュ “I Can See Clearly Now”
72年夏にアメリカ人のアーティスト、ジョニー・ナッシュがレゲエ調の曲“I Can See Clearly Now”をリリース、4週間に渡りチャートのトップに輝いた。この曲はナッシュ作曲だが、彼は以前ボブ・マーリーと共同で作曲していたことから、この曲はマーリーの影響があるという者もいる。同じく『I Can See Clearly Now』というタイトルになったアルバムにはマーリーの“Stir It Up”が最初の曲として録音され、“Guava Jelly”やマーリーとナッシュの共作“You Poured Sugar on Me”などが収録された。ボブ・マーリーはアイランド・レコードでの成功以前、ジョニー・ナッシュと共にツアーに出たりしている。
ボブ・マーリー “Jamming”
その創造力やカリスマ、またジャマイカでの曲のリリースに関わらず、21歳のボブ・マーリーはクライスラーの車工場で働く売れないミュージシャンだった。10代の間にレスリー・コングのプロデュースで4曲のリリースをするも、幼馴染みのバニー・ウェイラーやピーター・トッシュとウェイラーズを結成するまでは鳴かず飛ばずという状態だった。カトリックとして育てられたが、バンド結成と同じ頃ラスタファリ運動に参加。72年にロンドンでクリス・ブラックウェルに出会ったマーリーは意気投合し、アイランド・レコードでのレコーディング契約を結ぶ。当時、アイランド・レコードはトップ・レゲエ・スターだったジミー・クリフが離れたばかり。マーリーに反逆の精神を見たブラックウェルは、マーリーがロックの観衆にも親和性があると踏んでいた。ウェイラーズの最初のアルバム『Catch a Fire』(73年)は当初そこそこの売り上げに過ぎなかったが、エリック・クラプトンが彼らの“I Shot the Sheriff”をカヴァーしたことにより有名になっていく。
74年にバンドは解散し、メンバーはそれぞれソロ活動を始める。マーリーは76年のアルバム『Rastaman Vibration』で成功、77年夏リリースの『Exodus』はUKチャートに1年以上居座る大ヒットとなる。マーリーは81年に癌のため36歳で他界したが、偉大な音楽遺産を残し、多くのアーティストにカヴァーされている。彼のアルバム『Legend』は1番の売り上げを記録、世界中で2800万枚売れたとされている。