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遠藤周作「沈黙」 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界文化遺産に登録─あの夏も蝉は暑苦しく鳴いていたか

Exotic Grammar Vol.58-3

©表現社

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録──あの夏も蝉は暑苦しく鳴いていたか

 6月30日の日本経済新聞に以下のような記事が掲載された───「バーレーンの首都マナマで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の第42回世界遺産委員会は30日、『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』(長崎、熊本両県)の世界文化遺産への登録を決めた。江戸時代のキリスト教弾圧のなかで信仰を続けた希少な宗教文化が評価された」

 2015年に推薦書を提出、以後、調査、取り下げ、修正を経て、今回『キリシタン』の登録である。2018年、国内の世界遺産は22件目という。

 キリシタン、と聴いておもいおこすのは、踏絵であり、オラショである。また、遠藤周作の小説『沈黙』か。広く、多くの人に小説というかたちをとおして、史実以上のものを人びとに手渡した作品だ。

 わたしの手元には昭和41年(1966年)、新潮社刊の初版がある。「純文学書下ろし特別作品」と銘打たれたシリーズで函入り、この頃、ほかには安部公房『砂の女』、大江健三郎『個人的な体験』、福永武彦『海市』などがラインナップとしてあった。おそらく気になっていたのだろう、母が買ったものだ。わたしをカトリック系の学校にいれた母が。わたし自身はこの「特別作品」シリーズの、そして『沈黙』の背表紙をみて育った。

 『沈黙』は評判になった。作品に織りこめられた問いはいまもまだ生きている。だから映画にもなった。独立プロダクションをたちあげた篠田正浩が撮ったのは『沈黙 SILENCE』、1971年。21世紀にはいってからは、マーティン・スコセッシの『沈黙-サイレンス-』(2016)も生まれた。この間、45年。あいだに松村禎三のオペラ(1993)も加えておこうか。

 篠田版では、はじめ、さかんに男たちが駆けている。山道を、道なき道を、草のなかを、村人たちが、司祭たちが、駆ける。こちらには緑があり、むこうには海が、島が、ときどきみえてくる。

 小説にないシーンも散見できる。脚本に作家自身も加わっているがゆえか。詳しく記して興を削ぎたくないからすこしだけにするけれど、二人の女性の存在は大きい。三田佳子が演じる遊郭の女郎。ここにキチジローがきて酒を飲み、嘆く。おんなはおとこを慰める。もうひとりは、キリシタンのつれあいを持ち、拷問をうけ、ころぶモニカ/菊で、岩下志麻が演じる。何度か残酷で辛いシーンのひとつにモニカ/菊はたちあうだろう。映画をみる者が、つい、目を背けてたり、背けても音で責め苦がわかったりするのを、モニカ/菊は縛られながら、見なくてはならない。そして、何度も、叫びをあげる。これらのシーンは、男性が中心に描かれる映画であるゆえに、またキリシタン弾圧の一齣として、つよい印象を残さずにはいない。

© 2016 FM Films, LLC. All Rights Reserved.

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 スコセッシ版には女性がほとんど描かれていない。小松菜奈や片桐はいり、黒沢あすからは、存在感はあるものの、姿をみせるのはごく短い。スコセッシ版の特徴は、小説の大枠をそのまま描きだそうとするところ。セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペがヴァリニャーノ師と会見する。日本に出向くことの許可を得る。キチジローに出会う。こうした澳門=マカオでのエピソードから、ロドリゴが妻帯し亡くなるまでをたどる。その分、160分の長尺となっている。

 遠藤周作の小説の原作を読みかえしてみる。映画とは異なったかたちで、複数の語りからできているのがわかる。

 前史ともういうべき文字も小さな「まえがき」。──です・ます調をとる「セバスチャン・ロドリゴの書簡」はIからIVまでつづく。VからIXは「彼」や「司祭」と呼ばれる三人称が中心となり、地の文に「自分」の、「私」のことばが、自由間接話法のように、しみでている。そしてこのあと、「長崎出身オランダ商館員ヨナセンの日記より」が「何月何日」と日記調の文体で何ページかあってから、章を分けることなく、ふたたび三人称の語りへ。この最後ちかくに有名な「(踏むがいい)」ということばが引かれ、沈黙していた主と「彼」が対話する。つづいておかれるのは、現代人にはとても読みにくい、もしかしたら読まずに本を閉じてしまうかもしれない「切支丹屋敷役人日記」。岡田三右衛門となったロドリゴが職務を果たし、世をさるまでの経緯が記される候文だ。最後には執筆についての若干の説明と引用、資料についての「あとがき」。『沈黙』は、だから、現実の資料と、実在の人物でありながら想像力によってたちあげられた人物たちとによって織りなされる小説だ。

 スコセッシは『最後の誘惑』でキリストを、『クンドゥン』でダライ・ラマを撮った監督だ。そして、ブルースを、ロックを愛し、ザ・バンド、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディランと、大物ミュージシャンを撮影してきた。だが、この映画で極端に音楽は少ない。いや、映画をみた人でも、音楽には気づかなかったという人がいるかもしれない。ここでひびくのは蟬、何種類もの異なった蟬が鳴く。これはエンド・クレジットにもなっている。夏の暑さが──今年の酷暑は、だから特に──実感される。印象的なのは琵琶か。先に引いた、役人たちにロドリゴが捕まったあと、「パードレ。ゆるしてつかわさい」と叫ぶキチジローの声と木々の景色のあいだに、つよい、撥の一打ちがひびく。ほかは、戸外の牢の周囲でひびく能管、盂蘭盆の夜の鐘、鉦、笙、電子音、か。それらを、猥雑なマカオの飲食店での胡弓やサウンドスケープと較べるとどうだろう。他方、司祭たちを匿った村人たちは、議論する。篠田版での終始口を閉じ、黙りつづける村人たちとは対照的だ。クレジットとしては地味だが、スコセッシ版スコアはキム・アレンとキャサリンのクルーゲ夫妻が担当。Executive Music Producerは──ほかの作品でもときどきそうだが──元ザ・バンドのロビー・ロバートソン。

 篠田版にひびく音楽は武満徹。中心的にひびかせられるのはハープだ。パーカッシヴな衝撃音と高音域の鋭角的な単音や和音、急速なパッセージやグリッサンドが、同時代のヨーロッパでの初期バロック・スタイルの楽曲のうえにかぶさってくる、いや、攻撃を仕掛け、撹乱する。ときに、ハープと打楽器ともに。この時期、武満徹はハープのためのソロ曲──テープを伴う──《スタンザII》を書いているのも偶然ではないだろう。遊郭でひびいているのは三味線というよりは三線の音色にちかい。こちらでもやはり蟬が鳴く。蟬、そしてハエの羽音が。

 二本の映画は、ともに、疲弊したぼろぼろになったロドリゴが役人たちに囲まれるシーンで、ひとつのクライマックスを迎える。キチジローに勧められて干し魚を食べた修道士は、塩辛さで喉が渇いてしかたがない。近くに水はないのか。川はないのか。キチジローが水を探しにいくと、わざと塩辛いものを食べさせて、と苦々しくおもうロドリゴ。篠田版では海辺で、キチジローのむこうから役人たちがやってくる。スコセッシ版では、司祭は川のおもてに変わりきったみずからの顔をみいだす。水面の顔はキリストの顔に、またロドリゴ自身の顔に変わる。ロドリゴは大声で笑いだし、そこに役人たちがあらわれる。つづくのはキチジロー、キチジローに投げ与えられ金属的な音をたてる硬貨だ。

 キチジローは、ロドリゴのそばに、あらわれる。いないな、でてこないな、とおもっていると、あらわれる。ゆるしてつかわさい、と詫びながら。何度でも踏絵を踏み、自己嫌悪しつつ自暴自棄になりつつ、ロドリゴに追ってくるなと言われつつも。言うまでもない、ロドリゴとキリスト、キチジローとユダがそれぞれに重ねられている。小説でVIIIの終わりにはこうある──「こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。」

 篠田版では省かれ、スコセッシ版にはわずかに姿をあらわすことばがある。ころんだロドリゴに奉行・筑後守がこう語る。五島や生月には切支丹の門徒衆がいるが、もう捕える気はない、と。「五島や生月の百姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似ても似つかぬものになっておる」、「やがてパードレたちが運んだ切支丹は、その元から離れて得体の知れぬものになっていこう」。

 『沈黙』への言及もある、広野真嗣『消された信仰 「最後のかくれキリシタン」──長崎・生月島の人々』(小学館)が第24回小学館ノンフィクション大賞を獲得したのは、時宜を得たものだったろう。著者は世界遺産登録のために長崎県が作成したパンフレットで、この島の信仰がすでに消滅しているとされていることに注目、そこから現地への取材をおこない、そのありようが本となっている。キリシタン、それははたしてキリスト教信仰なのか、それとも変質した、異なった信仰なのか。

 ことの真偽を云々する気はない。ただ、キリシタンとひと言でまとめてしまうことでみえなくなることがあまりに多いという事実があり、信仰とは何かという問いが終わりなくくりかえされることに注目し、忘れないようにしたい、噛みしめておきたいとおもうばかりだ。この列島における宗教や信仰、伝統という概念に、日々疑問符をつきつけざるをえない日常をおくっているからには。

 


遠藤周作(Shusaku Endo)[1923-1996]
東京生まれ。幼年期を旧満州大連で過ごす。神戸に帰国後、12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶応大学仏文科卒。フランス留学を経て1955年「白い人」で芥川賞を受賞。結核を患い何度も手術を受けながらも、旺盛な執筆活動を続けた。一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追究する一方、ユーモア作品や歴史小説、戯曲、映画脚本、〈狐狸庵もの〉と称されるエッセイなど作品世界は多岐にわたる。1995年には文化勲章を受章した。

 


寄稿者プロフィール
小沼純一(Jun'ichi Konuma)

早稲田大学文学学術院教授。第8回出光音楽賞(学術研究部門)受賞。音楽文化論、音楽・文芸批評の分野で幅広く活躍。執筆したライナーノートも数多く、著書に『武満徹 音・ことば・イメージ』『ミニマル・ミュージック』『魅せられた体 旅する音楽家コリン・マクフィーとその時代』(以上、青土社)、『ピアソラ』(河出書房出版)、『武満徹 その音楽地図』(PHP出版)ほか。訳書に、ミシェル・シオン『映画の音楽』(監訳みすず書房)など。