Matthew Placek

一人で見る夢は夢にすぎないが、われわれが一緒に見る夢は現実だ

 逃げ惑う動物たちの鳴き声に銃声が重なってくる1曲目の“ウォーゾーン”に戦慄が走る。テーマも含めていまこの時代が必要としている響きがそこにあるからだ。

 20年以上前のアルバム『ライジング』でこの曲のオリジナル・ヴァージョンを聴いたとき、強い感銘を受けたわけではなかった。そこでの彼女はパンクとメタルをかけ合わせたギター・サウンドにのってパティ・スミスばりの力強い声を聴かせていた。後半の即興的なうめき声がいかにも彼女らしかった。しかし語尾が微妙にフラットする彼女の歌声とサウンドの間には見えない溝があるように思えた。

YOKO ONO Warzone Chimera Music/ソニー(2018)

 今回のヴァージョンでは、リズムと銃声を中心としたサウンドに、訛りのある語りが重なってくる。サウンドの谷間から響いてくるのは、わたしたちは戦場に暮らしている、この声が聴こえたら助けてほしい、というメッセージだ。

 彼女はシリアやアフリカの戦場を訪れたわけでもなければ、評論家のように高みから戦争を論じようとしたわけでもない。戦場とは彼女が(われわれが)暮らす世界の比喩だ。一見平穏な日常も、経済その他の経路をめぐりめぐって実際の戦場と結びついている。誰が、何が、それを見えなくしているのか。その現実から目をそらすな、目覚めよと彼女は語りかけてくる。

 彼女の音楽はコンセプチュアル・アートから派生してきた。作品よりコンセプトやアイデアが重要、アイデアが作品を作るというのがコンセプチュアル・アートの基本姿勢だ。その考え方をつきつめると、どんどん抽象的に自己完結していく。そこに想像力の可能性や禅問答的な喜びがないわけではないが、彼女はコンセプトを具現化して提示する楽しみのほうを選んだ。

 ジョン・レノンが訪れた展覧会で彼女が展示していた〈YES〉という小さな文字、言葉と絵で構成された書籍の「グレープフルーツ」、最近になってジョン・レノンとの共作と記されるにいたった“イマジン”などはよく知られている例だ。想像することの大切さを喚起する“ウォーゾーン”はその延長線上にある。“ナウ・オア・ネヴァー(時はいま)”の〈一人で見る夢は夢にすぎないが、われわれが一緒に見る夢は現実だ〉というフレーズも彼女のコンセプトを物語る美しい言葉だ。

 彼女のコンセプトは、特定の民族や土地によるコミュニティに依拠しているという以上に孤独な都市生活者の想像力の産物という性格が強い。メッセージを提示し、その夢を共有できる人たちとの間でコミュニティが生まれることを願うようなコンセプトといえばいいか。ただしそれを音楽にするには身体化する必要がある。

 音楽は夢だけでは成り立たない。然るべき方法論や技術や身体が要る。幸か不幸かジョン・レノンと出会ったころの彼女は音楽の専門家ではなかった。好奇心にあふれたお嬢様が、思いついたことをぶれずに、えい、やっ!とやってしまったような素っ頓狂な新鮮さとほころびの両方があった。ま、“ストロベリー・フィールズ・フォーエバー”のピッチのちがう2つのテイクをうまくつないでおいてね、よろしくと、プロデューサーに丸投げしてスタジオを後にしたジョンも、コンセプチュアル・アートを実践していたと言えなくもないか。

 今回のプロデューサー、トーマス・バートレットは、スフィアン・スティーヴンスやノラ・ジョーンズやナショナルといった売れっ子からクリス・シーリーやグローミングのようなアヴァン・ルーツ系のアーティストにまで、幅広く求められてきたクラシックの素養を持つピアニスト/プロデューサーだ。ジャンル横断的でミニマルなこのアルバムの演奏は、語りに近い小野洋子の声にふさわしい。セルフ・カヴァー・アルバムを作って、ほどんどの曲がオリジナル・ヴァージョンよりよくなっているこの作品のような例は珍しいのでは(2014年にリミックスされてクラブ・ヒットした73年の“ウーマン・パワー”は原曲も強力だが)。彼女が初期のボブ・ディランに通じる作品をたくさん作ってきたこともよくわかっておもしろい。