音楽を自分の言葉で語る、自分の価値観で選ぶ

 先日、ある展覧会のあいさつ文の中に〈音楽について語ることは、建築について踊るようなものだ〉という言葉をひさしぶりに目にした。それはアメリカのコメディアン、スティーヴ・マーティンの言葉だが、多くのミュージシャンによって語られている言葉でもある。そして、それは音楽について語ることの不可能、あるいはナンセンスについての言葉であり、言葉というものの表現の限界の謂いでもあるだろう。

 エルヴィス・コステロがそれを引用しているのを読んだことがあるが、私がその言葉の意味をより意識したのは、ローリー・アンダーソンと話した時のことだ。それは、音楽によって表現されるエモーションと言葉によるそれはまったく異なるものであり、音楽を語る言葉とは、音楽とは別の音楽のありようでもあるということ。たしかに、音楽を言葉に完全に置き換えることは不可能だし、こぼれ落ちてしまうものが多すぎる。

 アメリカの作家、トム・ウルフは現代美術のことを〈Painted Word(描かれた言葉)〉だとして、作品それ自体を〈見る〉ことではなく、作品の依拠する理論を〈読む〉ことによって理解され、価値づけられるようになった美術の状況について皮肉まじりに書いた。けれど、音楽そのものと同等かそれ以上に、音楽をより理解するための手がかりとなる言葉は必要とされる。もちろん、教科書的なものも知識としては必要だし、ある意味必須ではあるけれど、そうではなく、自分がどう感じたのか、考えたのかを表した言葉によって音楽に対峙することもまた必要なことであろう。そうして、音楽と言葉が拮抗することによって、そうした相互に表現することの不可能性という困難を抱えつつも、また新しい音楽や言葉を生み出していくことになる。

湯浅学 『大音海』 ele-king books(2018)

 湯浅学の「大音海」は、広大な音楽の海であり、かつ、音楽と言葉が新しい何かを生み出す海としての書物でもある。1997年刊行の著者による2冊目の単行本「音海」の増補改定版ということだが、「音海」がある意味小さな本であったことを思い出すと、21年をへたこのページ数の膨れ上がり方はすさまじい。しかも、帯には〈(以下続刊)〉とあり、音楽について書き続けることが、終わりのない営みであるということを教えてくれる。海にはあらゆる川から流れた水が集まるように、湯浅はあらゆる音楽ジャンルが流れ込んだ海を渉猟する、または、湯浅による言葉はその海の深甚さを思わせる。簡単に読めるものではない、しかし、あらためてここに書かれた音楽を耳にするとき、その音楽の聞こえ方はそれ以前と変わっているのではないか。

小島智 『アヴァン・ミュージック・イン・ジャパン』 DU BOOKS(2018)

 小島智による「アヴァン・ミュージック・イン・ジャパン 日本の規格外音楽ディスクガイド300」は、ディスクガイドという性質上、より客観的な記述がなされているが、扱われているのは〈規格外音楽〉だ。著者は80年代後半の日本におけるバンド・ブーム以降に顕著になっていく、ある種の商業音楽の〈画一化・無個性化〉を指摘している。メインストリームには、成功したバンドの後を追う似たようなバンドが跋扈するようになり、つまり音楽がマーケッティングにもとづいて規格化されたものになってしまった。そこで、そうした規格から外れた音楽に関心が向けられるようになったという。ここに記載された100枚の音盤と、それに付随する200枚の音盤とその面白さは、〈あくまで筆者の観点から感じ取ったもの〉であるという。たしかに、本書は灰野敬二からコーネリアスまで、強力なオリジナリティをもったノン・ジャンルな音楽のディスクガイドだ。

 ふたつに共通しているのは、取り上げられているアーティストが五十音順に列記されていること。それぞれに優劣がつけられないということ、ジャンルが多岐にわたるために、機械的に、事典的に編纂するほかなかったということか。しかし、それこそが意図されない連続性を導き出すものでもあるだろう。