パリのシテ・ド・ラ・ミュジーク(Cité de la Musique)で第1回ブーレーズ・ビエンナーレが開催

「ピエール・ブーレーズが死んだ」というニュースを耳にした翌日、2016年1月7日、私はサン・ラザール駅のキオスクに新聞を買いに行った。ル・モンド、フィガロ、リベラシオン、主要各紙が一面で彼の死を伝えていた。新聞売り場に並ぶブーレーズの顔を眺めながら、私は改めて、この音楽家がフランスにとっていかに大きな存在だったのかを認識した。もうきっと、彼ほどにフランスを象徴するような音楽家は現れないだろう。ブーレーズはフランス芸術文化の保守本流であり、フランス現代音楽のクリシェであった。彼の存在とその音楽の背後には常に、ラモー、ベルリオーズそしてドビュッシーへと続くフランスの音楽的革命の歴史が見えていたし、彼自身もその歴史の継承者であることを自認していた。「保守本流」と「音楽的革命」というふたつの言葉は矛盾しているようであるが、ブーレーズはまさしく「保守本流の革命家」であった。ブーレーズが築き上げた、戦後フランス現代音楽の「革命的な保守」は、今日のパリ国立高等音楽院に息づいている。ブーレーズはルイージ・ノーノのような意味では全く政治的な音楽家ではなかったが、別の側面では非常に政治的な音楽家であり、その政治的センスは抜群だった。ド・ゴール政権のアンドレ・マルロー文化相とは激しく対立したが、その後は保革両政権と一定の良好な関係を築き、それぞれから「音楽的成果」を得た。右派政権から得たそれがイルカム(IRCAM)であり、左派政権から得たそれがシテ・ド・ラ・ミュジークだった。だから、彼の作品の一つともいえるシテ・ド・ラ・ミュジークがブーレーズの功績を未来へと引き継いでいくために、彼の名を冠したビエンナーレを始めたことはごく自然なことなのだ。このビエンナーレの以前にも、2015年春にシテ・ド・ラ・ミュジークの音楽博物館で大規模なブーレーズ展が行われたことは記憶に新しいし、シテ・ド・ラ・ミュジーク計画の最後の仕上げとして2015年1月に落成した、ジャン・ヌーヴェル設計の新ホール、フィルハーモニー・ド・パリのメインホールはグランド・サール・ピエール・ブーレーズと名付けられた。

 第1回ブーレーズ・ビエンナーレは9月3日から9月8日までの6日間の日程で、ベルリンのピエール・ブーレーズ ・ザールとの共同企画として開催され、まずは宮内庁式部職楽部による雅楽の公演で幕を開けた。この雅楽公演は、現在パリで開催されている日仏外交関係160周年記念行事「ジャポニズム2018」の公式イヴェントでもあるのだが、この雅楽公演がブーレーズ ・ビエンナーレに組み込まれたのは、ブーレーズが1967年に大阪国際フェスティヴァルでの《トリスタンとイゾルデ》の指揮のため初来日した際に雅楽の演奏に触れ、強い印象を受けたことに由来したものである。そのほかにも、マティアス・ピンチャーとアンサンブル・アンテルコンタンポランによる、ブーレーズの《ピアノ・ソナタ第2番》と《ル・マルトー・サン・メートル》にベルクとウェーベルンを加えたプログラムや、ピアニスト、ラルフ・ファン・ラットによる若きブーレーズの作品《前奏曲、トッカータとスケルツォ》(1944年から45年にかけて作曲、バーゼルのパウル・ザッハー財団で再発見)の世界初演、ヴァイオリニスト、ルノー・カプソンと女優ジェニファー・デッカーによる若手作曲家バンジャマン・アタイールの新作初演など多彩なプログラムが展開された。しかしなんと言っても、今回のブーレーズ・ビエンナーレの中心を担ったのはダニエル・バレンボイムであった。

 バレンボイムはベルリン・シュターツカペレとブーレーズ・アンサンブルとともに3つのプログラムを指揮した。ひとつはドビュッシーの《管弦楽のための映像》、《牧神の午後のための前奏曲》そして《海》から成るドビュッシー・プログラム。ふたつ目は、ブーレーズの《リチュエル》とストラヴィンスキーの《春の祭典》というプログラム。最後はウェーベルンの《弦楽四重奏曲》に続いて、バレンボイムがピアノを弾いてシューマンの《ピアノ五重奏曲》、そしてブーレーズの《シュール・アンシーズ》というアンサンブル・プログラム。バレンボイムが用意したプログラムには、作曲家としてのブーレーズとともに指揮者としてのブーレーズの顔が垣間見える。私はそのうちベルリン・シュターツカペレとの最初のふたつのプログラムを聴いた。

 ドビュッシー・プログラムでバレンボイムが聴かせた響きは一貫してどっしりとしたもので、我々が一般的にイメージするドビュッシーの「フランス的」な響きとは異なるし、ブーレーズが生前聴かせてくれた磨き上げられたステンレスのような響きとも異なるものだった。全体的にゆったりとしたテンポで運ばれていく、ウッディでねっとりとしたドビュッシー。バレンボイムのこうしたドビュッシーへのアプローチは、今年の1月に、彼が同じくフィルハーモニー・ド・パリで開いたドビュッシー・プログラムのピアノ・リサイタルでも聴かれたものだった。バレンボイムのドビュッシーを聴きながら、ふと、フランス人にこのドビュッシーはありなのか?と思うのだが、パリの聴衆はバレンボイムのドビュッシーに最大級の賛辞を送り熱狂しているのである。砂糖たっぷりのフランス菓子や、バターたっぷりのフランス料理がもう絶滅しかけているように、もはや“フランス的”なドビュッシーの響きなどというものは、日本人の頭にだけ残っているイメージなのだろうか。

 ふたつ目のプログラムでは、前半の《リチュエル》を演奏する前に、バレンボイムは聴衆にレクチャーを行った。コスモポリタンであるバレンボイムは流暢なフランス語で冗談を交えながら、丁寧にこの空間的作品の聴きどころを紐解いていく。バレンボイムはブーレーズの作品を演奏する前にはこうしたレクチャーをする。2010年のベルリン芸術週間でバレンボイムがブーレーズの《デリーヴ2》と《ノタシオン》のピアノ版、管弦楽版を演奏した際にも、彼は丁寧なレクチャーをしていた。ドイツ語を解さない私にはさっぱりわからなかったな、などと懐かしく思い出していたら、あの時はまだ元気だったブーレーズの舞台上での笑顔も思い出して寂しくなった。実は私は演奏者としてのバレンボイムはちょっと苦手なのだが、彼のこうした「音楽を伝える」ということに対する徹底して真面目で誠実な使命感とエネルギーには心から敬意を抱いている。音楽家なのだから、大切なのはその音楽、演奏のみという考えももちろんあるだろうが、バレンボイムのこうした側面はクラシック音楽、とりわけ現代音楽には極めて重要ではないだろうか。だからこそ、ブーレーズはこれほどまで演奏スタイルの異なるバレンボイムと半世紀にわたって盟友であり続けたのだろう。後半に演奏されたストラヴィンスキーの《春の祭典》もドビュッシーと同じく生前のブーレーズの指揮者としての十八番であった作品だが、バレンボイムと彼のオーケストラの演奏は、ブーレーズのそれとはやはり異なるアプローチで、多少のアンサンブルの綻びなど何のその、この作品のエネルギーの爆発を前面に押し出した演奏だった。パリの聴衆の熱狂はドビュッシー・プログラム以上だった。バレンボイムはパリでは大スターなのである。

 最後に今回のブーレーズ・ビエンナーレのポスターについても触れておきたい。シテ・ド・ラ・ミュジークはフィルハーモニー・ド・パリのオープン以来、イヴェントごとに印象的なポスターを作成してパリの様々なところに貼っている。地下鉄や街中でそのポスターを見るたびに、そのセンスの良さには唸っていたのだが、今回のブーレーズ ・ビエンナーレのポスターを見たときには思わず立ち止まってしまった。一見なんの変哲もないシンプルなポスターである。しかしそれが抜群にカッコイイのである。デザイン、色使い、フォント、フランスの文化の底力を感じさせる見事なポスターである。言葉だけでは伝わらないので、今回シテ・ド・ラ・ミュジークに許可を取り、そのポスターもご覧いただけることになった。ブーレーズの音楽が聴きたくなってくるポスターではないだろうか。

 


Pierre Boulez(ピエール・ブーレーズ)[1925-2016]
作曲家、指揮者。1925年、南仏モンブリゾンに生まれる。パリ音楽院で、オリヴィエ・メシアン、ルネ・レイボヴィッツに師事。46年にはジャン・ルイ・バロー劇団の座付き作曲家・指揮者となる。67年、クリーヴランド管弦楽団の首席客演指揮者に、71年にはBBC交響楽団の首席指揮者、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任。78年すべての指揮活動から一度は退くも、91年、活動を再開。ウィーン・フィルの定期演奏会のほかレコーディング活動も積極的に行い、注目され続ける指揮者の一人。2016年1月5日死去。享年91。

 


寄稿者プロフィール
八木宏之(Hiroyuki Yagi)

1990年東京生まれ。青山学院大学および愛知県立芸術大学大学院で音楽学を学んだのち、渡仏。現在、パリ・ソルボンヌ大学音楽専門職修士課程2年次在学中。新日本フィルなどを中心に、広くクラシック音楽のコンサートのプログラムノートを手がけている。

 


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