〈ビル・ドラモンドとジミー・コーティによるハウス・ミュージックのユニット、KLF〉と聞いて、いったいこの2018年にどれほどの人が反応するだろうか。80年代後半から90年代前半に音楽に触れていたリスナーであれば、〈ああ、そんなやつらいたな〉と思う方も多いだろうが、89年生まれの筆者にとってみれば、KLFの音楽を聴いている友人など皆無だったし、〈ビル・ドラモンド? 誰?〉というのが普通だった。かろうじてアルバム『Chill Out』(90年)のジャケットは見たことがあるというくらいが関の山だ。

それほど顧みられなかったというか、あまりにも独特すぎて、フォロワーが生まれるどころか、その功績がどんなものであったのか誰もわかっていなかったというのが実状なのではないだろうか。そもそも、この評伝「The KLF ハウス・ミュージック伝説のユニットはなぜ100万ポンドを燃やすにいたったのか」にも詳細に書かれている通り、彼ら自身、KLFというグループで何をしたかったのかが、ほとんどわかっていなかった。KLFについては、常にその〈わからなさ〉がつきまとう。

そんなKLFの〈わからなさ〉を丁寧に、しらみつぶしに追っていくのが本書である。本書や彼らのウィキペディアを読めばわかるとおり、KLFは〈ハウス・ミュージックの伝説のユニット〉というよりも、87年から92年の5年間にわたって止まることなくパフォーマンス・アートをゲリラ的に繰り広げていた二人組という説明のほうが圧倒的に正しい。

もちろん、彼らには〈パフォーマンス・アートをやろう〉などという意志はこれっぽっちもなかっただろう。が、その無軌道な活動の一部としてハウスのレコードを制作して、とんでもなく売れてしまい、そして100万ポンドを燃やしたのだ。音楽制作も100万ポンドを燃やしたことも、すべてKLFという一連の運動の流れのように捉えたほうがわかりやすい。ということは、そもそも彼らの音楽を音楽として真面目に聴くこと自体が、何か馬鹿馬鹿しいことであるように思えてくる(そもそもカタログがすべて廃盤になっている)。

で、本書である。はっきり言って、これは奇書だ。おびただしい数の登場人物たちが現れては消えていき、いきなり再登場したかと思えば、KLFと関係があるのかないのかよくわからない陰謀論やマイナー・カルト宗教について紙幅が割かれていく(しかしながら、もちろんすべて関係あるのだ)。ほとんどポストモダン小説のようであるし、本書を読み進めていく感覚というのは、トマス・ピンチョンの小説やロバート・アルトマンの群像劇に触れているときの感覚に近い。100万ポンドを燃やした理由だって結局のところ、よくわからない。

現実と妄想の区別がつかなくなる。いや、妄想や奇想が実際に現実に影響を及ぼしていく。一見、無関係に思える事柄でも、すべてが関係しているし、無関係であることなどないのだ――そんな陰謀論的な世界観に思わずぐいっと引き込まれ、染まりそうになってしまうが、つまり本書はそういう読書体験を提供してくれる。本当に笑ってしまうようなエピソードばかりが描かれているし、愉快で楽しい本ではあるのだが、同時にめちゃくちゃ危険な書物でもある。〈音楽書籍〉や〈評伝〉という体裁はカモフラージュである。

ちなみに、KLFは100万ポンドを燃やした94年の23年後、つまり2017年に、100万ポンドを燃やしたことについて〈的確かつ適切に対応する〉という契約を結んでいる。その契約の履行のためなのか、はたまた気まぐれや思い付きなのかはわからないが、再結成(?)して書籍を刊行したり遺灰でできたレンガでピラミッドを作ろうとしたりしている。KLFというプロジェクトは、いまだ未完なのである。