COLUMN

古くて新しい 落語家・桂歌丸

Exotic Grammar Vol.60-1

2006年9月7日 牡丹灯籠(栗橋宿)

「あたくしにはあたくしの思い出があります」
歌丸による話し言葉の妙

 「人には」

 と高座の桂歌丸は語り始める。

 「それぞれ思い出というものがあると思います。きょうお見えのお客様にはお客様方なりの思い出。あたくしにはあたくしの思い出がございます」

 ここはむろん、噺(はなし)の本題ではない。いわゆるマクラ、というよりマクラへの導入部のようなものか。まだ話題は江戸時代の外にある。演者も落語家・桂歌丸というより本名の椎名巌の呼吸で客席の聞き手に語りかけている。

 だから、「思い出」ということばが自然に高座と客席の間に吹く風になる。ともに同じ今日という日を生きている同士の気持ちの交流も生まれる。「思い出」は現代の人間同士が考え込んだり肩肘を張ることもなく口から発し耳で受けることができる共通の心の動きを生み出すことばだ。

 いくら上手な落語家が口にしたとしても、長屋の八五郎や花魁(おいらん)喜瀬川に「思い出」は似合わない。それほど新しいことばではないのだが、「思い出」は江戸時代には、いや明治時代にさえ相性がよくない。

 百年以上前に生まれた“昭和の名人”世代の落語家も高座で「思い出」の一語を聞かせた例はなかったのではないか。

 では、「思い出」をかりそめのテーマのようにしてマクラの導入部を語った桂歌丸は新しい言語感覚、表現センスの持ち主だったのだろうか。まさにその通りだと言ってしまいたいところだが、この「思い出」のコーナーだけでも桂歌丸はずいぶん古いことばづかいを大事にしている。

 まず「あたくし」。これは「私」を柔らかくしたことばで昭和前半あたりまでは男女ともに使っていたが、今は〈落語ことば〉に辛うじて名残をとどめている。桂歌丸は日常会話でも常に自分を「あたくし」と言っていた。

 そして「ございます」。これは平成の若手落語家もときおり口にするが、歌丸ほどのしっかり地に足の着いた言い方ではない。「あたくしは○○でございます」流の話術の骨格を持った最後の落語家は桂歌丸だったのではないだろうか。

 つまり桂歌丸は古くてしかも新しい落語家だった、ということができる。古い落語の骨格やたたずまいを大切にしながら新しい落語のセンスを磨いた歌丸落語。人情噺や怪談噺の名手でありながら人気テレビ番組『笑点』の看板役にもなった桂歌丸は一つの側面だけで相場を決められる落語家ではなかったと思う。

 桂歌丸の「思い出」話はあっさりと次のように締めくくられた。

 「じゃ、歌丸、おまえの思い出はどういうのだと訊かれますと(と前頭部を指差して)十年前はここまで毛があったというのが思い出でございまして、あんまりいい思い出じゃございませんな」

 

新作落語派から古典落語派へ
とどまることのない探究心

 桂歌丸は一九三六年八月に横浜で生まれた。修業時代をふくめてずっと横浜で過ごした。生粋の“浜っ子”で生家はこの地の花柳界の大見世(おおみせ)だった。主に祖母に育てられたという。

 小学生の頃に将来は落語家になろうと発心し、中学校卒業を待ちきれずに当時新作落語で売れていた五代目古今亭今輔に入門した。少年の歌丸としては戦争直後の世相を映した新作落語にまず魅力を感じたのだろう。

 今輔は東京・台東区の西黒門町に住んでいて、かの八代目桂文楽とは同じ小道の少し離れた向かい合い。現JRの御徒町駅からは近かったが、横浜の自宅から市電で桜木町駅に着くまでにかなり時間がかかるから、毎日師匠の家へ通うのは大変なことだった。それでも好きで入った道、古今亭今児の歌丸少年は熱心に師匠宅へと通った。

 前座時代の今児についてのちの九代目入船亭扇橋は「とても太鼓がうまかった」と言っていた。怪談仕立ての《反魂香》が十八番だった八代目三笑亭可楽には指名で重用されていたそうで歌丸本人もそれを自慢にしていた。

 落語界では、太鼓のうまい若手は噺の運びもよく、大成する可能性が高いと言われている。

 だからといって歌丸は順風満帆の歩みをしたわけではない。戦後十年の頃にこの国全体がきびしい日々を送っていた。今児時代の歌丸も挫折しかかり、一時は寄席を休んで化粧品の訪問セールスをしていたという。やがて落語家に復帰し、今輔の総領弟子・桂米丸の下に移籍して歌丸を名乗った。

 まもなく経済成長の時代が始まり電波に乗って落語の人気が復活すると歌丸は若手有望株として注目されるようになった。そして『笑点』が生まれ、レギュラー出演者の座を得た桂歌丸はフィーバーの軌道に乗ったのだった。

 『笑点』で人気者になった桂歌丸は高座の人気者にもなっていく。だが、ここから先はメディアの敷いた路線とは関係がない。桂歌丸は三十代にして新作落語派から古典落語派へと転身を遂げたのだった。並の芸人なら守りに入りかねない年齢で歌丸は攻めに転じた。

 その理由や背景についての歌丸本人の説明は至極穏当なものだったが、おそらく自分自身の内なる古典落語への目覚めがあって、歌丸はそこに賭ける孤独な決断をしたということではなかろうか。

 新作の鬼だった最初の師・今輔も自分ならではと自負する古典落語を演じ続けていた。もう新作一筋に意地を張る時代ではない。桂歌丸は新作と古典の二筋道を歩む安全策をとらず、徹底した古典派の道へ入った。

 その入り方もまた思い切ったものだった。誰もがよく演じて人気のある古典落語のいわば定番には、当初、歌丸は目もくれなかった。演者が少ない、あるいは一人もいなくなった古典落語の埋もれた噺を復活すること。並の古典安住派がとらない手法で桂歌丸は古典派への参入を宣言したのだった。

 《おすわどん》《いが栗》《辻八卦(つじはっけ)》《小烏丸(こがらすまる)》などがその成果で、とくに《おすわどん》は今後多くの後輩にとって演目資産になりそうだ。

 こうして古典派に転身した歌丸が取り組んだ次のテーマは続き物の人情噺、怪談噺への取り組みだった。とくに幕末、明治の落語中興の祖・三遊亭圓朝作の長編への挑戦だった。全編を通せば十数時間を要する笑いどころがほとんどない話芸ドラマの奥の院。歌丸は《怪談牡丹灯籠》《怪談乳房榎(ちぶさえのき)》。そして《真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)》《江島屋怪談》ではこれまで実演されたかどうか不明の最終場面「お賤(しず)の懺悔(ざんげ)」を復演している。晩年の十年ほどは国立演芸場での八月の人情噺十日間連続口演が名物のようになっていた。

 八十歳を目前にした桂歌丸は圓朝作《塩原多助一代記》に心血を注ぎ、酸素吸入器の助けを借りながら「青馬(あを)の別れ」「多助の出世」の二席をまとめ上げた。恩師・今輔がやり続けた《塩原多助》をやりとげて桂歌丸は思い残すことなく旅立ったと思われる。

 

 桂歌丸は古くて新しい落語家だった。改めてそう思う。モダンでハイカラな横浜で生まれ育った浜っ子のセンスで江戸落語をスマートにこなした歌丸さん。新作落語でフレッシュな才気を養い、思い切って古典落語に転身し、勉強に努力を重ね、あえて困難な古い噺に挑み続けた歌丸さん。他の誰ともちがうその芸の立ち位置が古手の聴き手にも若手の落語ファンにも受け入れられる歌丸落語の世界を生み出したと思う。生涯細身の人だったが、芯はなかなか剛気のサムライだった。改めて歌丸落語をゆっくり聴き直してみたいと思う。

 


桂 歌丸(かつら・うたまる)[1936-2018]
1936年横浜市生まれ。本名は椎名巌(しいな・いわお)。中学在学中に古今亭今輔に入門、のち桂米丸門下となる。1968年、桂歌丸として真打昇進。2004年(社)落語芸術協会会長に就任、2006年から2016年までは『笑点』の5代目司会者を務め、全国的な人気を誇る。歌舞伎好きで、多くの芝居噺に独自の視点を当てる。後継育成や落語界発展に尽力し続けた。2018年慢性閉塞性肺疾患のため死去。享年81歳。

 


寄稿者プロフィール
京須偕充(きょうす・ともみつ)

1942年東京・神田生まれ。慶應義塾大学卒業。ソニーミュージック(旧CBSソニー)のプロデューサーとして六代目三遊亭圓生の「圓生百席」、三代目古今亭志ん朝、柳家小三治のライブシリーズなどの名録音で広く知られる。少年時代からの寄席通い、戦後落語の黄金期の同時代体験、レコーディングでの経験などをもとに落語に関する多くの著作がある。おもな著書に『圓生の録音室』(ちくま文庫)、『落語家 昭和の名人くらべ』(文藝春秋)など。

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