LAを拠点とする鍵盤奏者/プロデューサー、マーク・ド・クライヴ・ロウが2枚組の新作『Heritage I & II』をリリースした。ニュージーランド人の父親と日本人の母親を持つ彼は、ウエスト・ロンドンのブロークンビーツ・シーンでプロデューサーとして10年近く活動を続けた後、LAに移住。同地では出自であるジャズ・ピアニストとしての活動もリスタートさせ、ミゲル・アトウッド・ファーガソンやカマシ・ワシントン、ハーヴィー・メイソンら重要人物とも多数コラボレーションしてきた、LAシーンの陰のキーマンと言える存在だ。

マークの新作のテーマは、日本。自身のルーツに真向から向き合った、数年前より進めてきたプロジェクトのひとつの集大成となる、自身にとってもっともパーソナルな作品となった。

そんな作品が生み出された背景に迫るべく、Mikikiではマークへメール・インタヴューを実施。質問作成は、共演経験もあり、マークの新プロジェクトにも参加しているという、grooveman Spotとの77 Karat Goldceroの楽曲のリミックスでも知られるプロデューサーのsauce81が担当した。自身も幼少期をアメリカで過ごし、東西の異なる文化を背景に持ちバイリンガルでもあるsauce81からのレターのような熱のこもった問いに、マークがリプライした。

★マーク・ド・クライヴ・ロウ『Heritage I & II』へsauce81、カルロス・ニーニョ、石若駿、沖野修也、DJ KENSEI、柳樂光隆が寄せたコメントはこちら

MARK DE CLIVE-LOWE 『Heritage I & II』 Ropeadope/rings(2019)

 

ホスト・ファーザーの書斎から、信じられないくらい最高な音楽が聴こえてきて

sauce81「マーク、『Heritage I&II』リリースおめでとう! 今作は自身のルーツでもある日本がテーマという事で、まずはマークの子供の頃のことから訊いていきたいと思います。

その前に僕のことを少し話すと――僕自身は音楽的な家庭に生まれたわけではないんだけど、物心ついた頃から音楽が大好きだというのは認識していました。初めはロックやポップスが好きだったんだけど、いつしか普通の楽器では出せない変わった音色を鳴らすシンセや、既存の音楽をカットアップして再生するサンプラーに魅了されていたんだよね。魔法みたいだと思ったよ!

マークと音楽との出会いはどんな感じだった? ピアノを弾きはじめたきっかけや、生まれ育ったニュージーランドで聴いていた音楽、そして、日本人であるお母さんから受けた音楽的/文化的影響があれば教えてもらえる?」

マーク・ド・クライヴ・ロウ「音楽一家に生まれ育った僕の父は、自分では楽器をやってこなかったから子どもたちみんなに楽器を習わせたがっていて、僕は4歳の頃にピアノを始めたんだ。レッスンではクラシックばかり弾いていたんだけど、僕はもっとモダンな音楽がやりたくて、ビートルズやスーパートランプ、クイーン、エルトン・ジョンの曲をソングブックから見つけて繰り返し弾いていた。父はミュージカル映画のサウンドトラックとビッグバンドのジャズが好きで、そういった父の所有するレコードはよく聴いていたよ。

高校では友達が聴かせてくれたガイに衝撃を受けて、ニュー・ジャック・スウィングに夢中になり、ネイティヴ・タンなどのヒップホップを貪るように聴いた。同時に、兄がくれたアーマッド・ジャマルの『The Awakening』(70年)、エロル・ガーナーの『Concert By The Sea』(1955年)なんかも聴いていたよ。この頃も(クラシック・)ピアノを弾いていたんだけど、ジャズや即興への好奇心が芽生えていって。でも、周りでその感覚を理解してくれる人を見付けられる気がしなかったから、ひとりでやってみようと決めてたんだ。

15才のときにドラム・マシーンとシンセを買って、テディ・ライリーに影響を受けた音楽をニュージーランドのソウル/R&Bスタイルのアーティストと作りはじめたんだけど、その頃公開された映画「モ’・ベター・ブルース」(90年)を観て、自分の方向性が完全に変わってしまったんだ。そこには、僕がその存在すら知らず、ずっと思い描いていたすべての音楽がこの映画で表現されていたんだよね。それまでにマイルス(・デイヴィス)など50~60年代のジャズをすでに聴いていたけど、映画の音楽を担当したブランフォード・マルサリス、テレンス・ブランチャード、ケニー・カークランドらによるバンドの演奏に完全に圧倒されてしまって。そこから、〈いつかアメリカの音楽学校に行って、プロのミュージシャンになりたい〉と夢を思い描くようになった。

僕の母は“赤とんぼ”などをよく歌っていたし、かなり小さな頃からそういう日本の歌や神話、民話に慣れ親しんでいたよ。こうした母の影響で、自分がニュージーランド人であることと同時に日本人でもあるということを、小さな頃から理解することができていたんだ」

『Heritage I & II』トレイラー

sauce81「初めて日本に来たのはいつだったの? 横浜の学校に通っていた時期があったと聞いたけど、ホーム・ステイ先のホスト・ファミリーから受けた音楽的・文化的経験や影響についても教えてください」

マーク「初めて日本に行ったのは10歳のとき。母の家族に会いに東京や長野に行ったよ。以降、毎年夏に日本へ行くようになった。母と叔母は日本とニュージーランドの親交協会に関わっていて、毎年、長野の車山高原でニュージーランドのフェアをやっていたからいつも行ってたんだ。叔母は(長野の)姫木平あたりに別荘を持っていたから、日本では街と田舎それぞれの生活を経験していたよ。ニュージーランドの高校の修学旅行では、僕が生まれたオークランドの姉妹都市である福岡に行ったりも。でも、日本の文化や言葉を本格的に勉強したのは横浜の山手学院高校に通っていたときで、(横浜・)赤門町のお坊さん一家の家にホーム・ステイしていたんだ。ホスト・ファーザーの住職という職業にありがたみを感じるにはまだ若すぎたけど、彼との出会いは大きかった……。

あるとき、ホスト・ファーザーの書斎の前を通りかかると、信じられないくらい最高な音楽が聴こえてきたんだ。ノックして〈何を聴いてるの?〉と訊くと、〈今日発売のマイルス・デイヴィスのプラグド・ニッケル・ライヴのボックス・セット(『The Complete Live At The Plugged Nickel 1965』)だよ〉と。しかもそのとき彼はマイルスの画集を見ていたんだ! 僕らふたりはジャズ・マニアだったんだよ。

それから昼は学校に行って、夜になると連れ立ってジャズ・クラブに通った。フレディ・ハバード、レイ・ブライアント、テレンス・ブランチャード、日本のジャズ・ミュージシャンでは板橋文夫、向井滋春、大西順子を一緒に観たよ。その頃大西順子はデビュー直前で、古野光昭のバンドで演奏してたんだ。彼女のサウンドは素晴らしくて、(デューク・)エリントン、マッコイ・ターナー、ケニー・カークランドを混ぜ合わせたみたいな感じだったな。

その年は僕が人生で手に入れたいと思うものを100%確信できた年だった。〈ジャズ・ミュージシャンになりたい〉ってね。実はニュージーランドに帰国した後はロー・スクールに行く予定だったんだけど、きっぱり辞めたよ! ホスト・ファミリーとは長い付き合いで、4歳年下のホスト・ブラザーはいまや住職でヴィジュアル・アーティストでもあるから、自然やアートが人生や仏教の哲学にいかに通ずるかよく話し合うんだ」