Transplant(移植)とTranslate(翻訳)、そしてTransparency(透明性)

辛島デイヴィッド Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち みすず書房(2018)

 「Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち」は、本のタイトル通り、村上春樹の翻訳に携わった著者、出版社、編集者と翻訳者への取材を中心に村上文学の世界化についてのドキュメントである。毎年、ノーベル文学賞の受賞が期待される文学者なのだから当然、世界中に読者がいてその世界化を支えるインフラがあることは周知、のことだろう。しかし村上文学の世界化を実現しているインフラがどのように組み上がったのかは、多くの読者にとって未明、未知のことだったのではないか。いつの間にこんなにもそして、あんな風に世界で読まれるようになったのか?

 個人的な出来事で恐縮だが、思い起こせば2000年、当時ルーベン・ブラデスのバンドメンバーだったドラマーから突然「お前は村上春樹はどれが好きだ?」とNYのスタジオで質問されて「どうして?」と問い返すと「お前、日本人だろう?」と返された時、村上文学の世界化はすでに完了しつつあったのだ。その後、2006年にトランジットで立ち寄ったシカゴ空港内の本屋で、ずらりと並ぶP.K.ディックの棚の対面にずらりと並んだ春樹本に囲まれた時、世界化が完了したのだと実感した。そしてこの本を読んで気がついたのだが、ディックもハルキも、ペーパーバックは同じ出版社から出ていたのだった。

 この本によれば村上文学の英語化は高校生や大学生の英語教材として訳された短編から出発したという。なるほど入試の英文解釈などの問題集に並んだ例文などのそのシュールな言語感覚に陰惨な気持ちになる編集者がいても不思議ではない。古典はもとより、現代文学やニュースの素材をもとに授業や問題を組み立てるべきではないかと思う。

 それにしても村上文学の翻訳を担当した歴代の訳者の想像力、日本人のような外国人(逆か?!)の、あの言葉の、文体の捕獲、配置能力は、どのように養われたのだろうか。

 かつてサミュエル・ベケットは仏語で書いた自作を自分で英語に訳したり(その逆もあり)して、二つの言語を自らの表現媒体として自在に扱っていた。しかしこの本を読むと、翻訳作業にあたっては訳者、編集者の綿密なチームワークは必須であることが分かった。特にアメリカの出版社では当たり前なのだそうだ。

 原著に相応しい訳語の選択だけでなく、英語圏の読者に受け入れられやすくするために大胆なトリミングや、文の入れ替えといったマーケッタビリティを目的とした編集が行われるという。村上文学は、こうした通過儀礼を何度も繰り返し異邦の空間に浸透していった。かつてべケットは仏語で書いた作品の新訳をポール・オースターに打診されて、彼は “NO”とだけ返したという。比べて村上文学は何と逞しいことか。