不条理に満ちた地上の低みから、想像力あふれる創造の高みを目指していくピースフルな音楽

 エモい。美しい。染み込む。SNS上でマックス・リヒターの音楽を称える様々な言葉。どれも正しいが、ひとつ大事な印象が抜けている。彼のライヴを聴いた時の凄まじい重量感だ。2年前、アムステルダム・コンセルトヘボウで8時間のララバイ『スリープ』を聴いた時、その重量感に打ちのめされた。『スリープ』のラスト1時間、全世界を覚醒せんばかりにピアノを強打し続けるリヒター。その和声進行を、可聴帯域をはるかに下回る重低音が圧倒的な爆音で増幅する。まるで地震か爆発でも起きたようにビビり始めるコンセルトヘボウ。それを実際に体感した時、彼が〈ポスト・クラシカル〉という造語に込めた意味が初めて理解できた。〈ポスト・クラシカル〉は、単なるクラシックとエレクトロニカの融合ではない。ましてや、クラシックをアンビエント的な音空間で心地よく鳴らす音楽でもない。大地の重みに根ざした重低音――文字通りのグラウンド・バス――から遥かな高みを目指して必死に奏でられる、切実な思いに満ちた音楽なのだ。

 その『スリープ』のリハーサル中、確か午前2時を過ぎていたと思うが、彼とふたりきりで話すことが出来た。東京大空襲の記憶を後世に伝えるため、すみだトリフォニーホールがあなたを招聘し、作品を演奏したいと申し出ている――。そう彼に伝えると、夜更けの静寂に支配されたバックステージでリヒターはおもむろに口を開いた。

 「音楽とは創造性、あるいは意識を創造性の高みに向かわせる活動ではないかと。その活動を〈平和〉と呼ぶことも可能でしょう。同時に、音楽はコミュニティなくして存在し得ない。(墨田という)コミュニティに根ざした形で音楽を演奏し、追悼するというアイディアは素晴らしいと思います」。

 それから1年半を経た昨年末、リヒター自身が演奏に加わった2002年のデビュー・アルバム『メモリーハウス』の実演を香港で聴いた。75人編成のオケにピアノ、モーグ・シンセサイザー、ソプラノ、それに独奏ヴァイオリンという、経済的な効率を完全に無視した巨大な編成の中で、たったひとつの主題が、ある時はバロック風に、ある時はロマン派風に、またある時はミニマル風に、変幻自在にスタイルを変えながら変奏されていく。まるで、ヴァージニア・ウルフの小説「オーランドー」に出てくる性別も国籍も時代も超えた主人公のようだ(リヒターがバレエ音楽「ウルフ・ワークス」の第2幕で「オーランドー」を題材にしているのは、偶然ではない)。しかもラストの第18曲《最後の日々》に達すると、リヒターはマーラーやショスタコーヴィチのような交響曲では物足りないと言わんばかりに、シンセの重低音をフルオケのトゥッティに容赦なく加えていく。歓喜と破滅が一緒くたになったような音の大伽藍は、その場に居合わせた聴衆すべてを文字通り〈震撼〉させた。こんな凄まじい大爆音は、とてもCDやハイレゾには収まらない。

 「『メモリーハウス』の中には(ルネサンスの作曲家)ヤン・スウェーリンク風の音楽やバッハ風の音楽、あるいは後期ロマン風の音楽や初期シェーンベルク風の音楽など、さまざまな種類の音楽がパスティーシュ(模倣)のように織り込まれています。そうした音楽を現代という観点から俯瞰してみると、エレクトロニクスがそこに加わっても当然だと思うのです。なぜなら、我々は21世紀という今を生きていますから」

 それだけでなく、『メモリーハウス』にはリヒターがその後15年以上に渡って作曲してきた音楽語法のほぼすべてが詰まっていた。例えば、天使のように透き通ったグレイス・デヴィッドソンのソプラノ・ヴォイスで歌われる子守唄、気の遠くなるような長さの第12曲《アルベニータ(11歳)》は、最初に触れた『スリープ』のソプラノ・パートを明らかに予感させる音楽となっている。あるいは、マリ・サムエルセンの独奏ヴァイオリンが一心不乱に灼熱の超絶技巧を弾き続ける第10曲《ノヴェンバー》は、リヒターの代表作『ヴィヴァルディ・リコンポーズド』の《Summer 3》に聴かれる魔性的なミニマルの先駆けとなっている。

 そして何よりも驚かされたのは、今回香港で演奏された《メモリーハウス》のライヴ・バージョンが、2002年リリースのアルバムから大幅な進化を遂げていたことだ。曲順も構成も大きく変化しているばかりか、CD発表時に収録を断念したという第16曲《ベルリン日誌》のような〈新曲〉さえ含まれていた。

 「私自身は『メモリーハウス』を未完の作品、つまりワーク・イン・プログレスだと捉えています。普段、自分のレコードはめったに聴き直さないのですが、『メモリーハウス』を演奏するためにCDを聴き直すと、とても新鮮なんです。まだまだ発展の余地が残されている。その意味では、作品として完結した音楽とは思えないのです」

 別の言い方をすれば、リヒターの音楽の出発点である『メモリーハウス』は、現在も彼が精力的に続けている、創作活動という名の長大な変奏曲(ヴァリエーション)の〈変奏主題〉とみなすことも可能だろう。そのことを強く感じさせたのが、香港公演のアンコールで演奏された弦楽合奏曲《オン・ザ・ネイチャー・オブ・デイライト》だ。『シャッター・アイランド』や『メッセージ』など、数々の映画音楽に使用されたことでも知られるこの楽曲は、リヒターの2004年のセカンド・アルバム『ブルー・ノートブック』のメインテーマとして作曲された。ところが、ヴァイオリンが奏でるカウンターメロディに耳をそばだててみると、つい先ほどまで演奏されていた《メモリーハウス》の変奏主題と全く同じなのだ。

 「私にとって、作曲とは切れ目なく続く活動なんです。実際、『ブルー・ノートブック』では『メモリーハウス』を引用していますし、今まで私が発表してきたアルバムは、すべて何らかの形で関連しているんですよ」

 リヒターはその『ブルー・ノートブック』を、東京大空襲の前夜にあたる3月9日、日本で15年ぶりに演奏する。2003年のイラク戦争にプロテストする目的で書かれたこのアルバム――タイトルはカフカの「八つ折り判ノート(The Blue Octavo Notebooks)」に因む――が〈すみだ平和祈念音楽祭2019〉の開催意図に相応しいと判断したからだ。

 「このアルバムを作曲した2003年当時の状況は、まさに不条理そのもの。つまり、ありもしない大量破壊兵器を口実に、イラク戦争が始まろうとしていました。カフカは不条理という手法を文学に用いることで権力構造を批判した作家ですから、そのテキストを『ブルー・ノートブック』の中の朗読パートに使おうと考えたのです(注:3月9日の実演でも女優がライヴで朗読する)。それとは別にもうひとり、より個人的な視点から戦争について意見を述べた作家のテキストも朗読させようと考えました。第2次世界大戦のことを扱った(ポーランドのノーベル賞作家)チェスワフ・ミウォシュです。朗読パートに用いた彼のテキストの一節〈(夢の中で)木々は、私の子供時代よりずっと高くなっていた。切り倒された後も、ずっと伸び続けていたからだ〉は、不条理な現実に縛られることのない人間の想像力や創造性の素晴らしさを称えている点で、私自身の芸術的マニフェストとも言えます」

 どこまでも伸びゆく木々のように、不条理に満ちた地上の低みから想像力あふれる創造の高みを目指し、長大な変奏曲のように辛抱強くワーク・イン・プログレスを続けていくこと。それがリヒターの音楽の本質であり、ひいては彼のピースフルな音楽が目指す平和の本質である。我々が〈すみだ平和祈念音楽祭2019〉で『メモリーハウス』と『ブルー・ノートブック』を聴かなければならない理由が、そこにある。

 


マックス・リヒター
1966年3月22日ドイツ・ハーメルンに生まれ、イングランド・ベッドフォードで育つ。エディンバラ大学と英国王立音楽院でピアノと作曲を学んだ後、フィレンツェでベリオに作曲を師事。2002年、オーケストラとエレクトロニクスのための『メモリーハウス』でソロ・アルバム・デビュ。その後、イラク侵攻に反対する目的で作曲された『ブルー・ノートブック』(2004)、村上春樹の小説にインスパイアされた『ソングズ・フロム・ビフォー』(2006)、携帯電話の着信音を変奏曲形式で作曲した『24 Postcards in Full Colour』(2008)、ロンドン地下鉄テロ犠牲者を追悼した『インフラ』(2010)、ヴィヴァルディ《四季》全曲をリコンポーズ(再作曲)した『25%のヴィヴァルディ』(2012)、睡眠中のリスニングを前提とした8時間の大作『スリープ』(2015)、作家ヴァージニア・ウルフの小説と生涯を音楽化した『3つの世界:ウルフ・ワークス(ヴァージニア・ウルフ作品集)より』(2017)と、クラシックとエレクトロニカを融合したポスト・クラシカルのカリスマ作曲家として絶大な人気を集める。映画/テレビのサントラでは、『戦場でワルツを』(2008)『さよなら、アドルフ』(2014)『LEFTOVERS/残された世界』(2014-17)『女神の見えざる手』(2016)『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』(2018)などで高い評価を得ている。初来日は2004年。2019年3月には「すみだ平和祈念音楽祭」出演のため、15年ぶりの来日を果たす。

 


LIVE INFORMATION

すみだ平和祈念音楽祭2019 マックス・リヒター・プロジェクト
会場:すみだトリフォニーホール 大ホール

○3/2(土)14:30開場/15:00開演
リヒター:リコンポーズド・バイ・マックス・リヒター~ヴィヴァルディ《四季》
ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集《四季》
ダニエル・ホープ(vn)北谷直樹(cemb)新日本フィルハーモニー交響楽団

○3/5(火)18:30開場/19:00開演
R.シュトラウス:交響詩《ツァラトゥストラはかく語りき》作品30
リヒター:メモリーハウス(日本初演)
クリスチャン・ヤルヴィ(指揮)マックス・リヒター(p. electronics)マリ・サムエルセン(vn)グレイス・デヴィッドソン(S)
新日本フィルハーモニー交響楽団

○3/9(土)17:30開場/18:00開演
リヒター:ブルー・ノートブック、インフラ(アジア初演)
マックス・リヒター(p, electronics)サラ・サトクリフ(朗読)アメリカン・コンテンポラリー・ミュージック・アンサンブル

www.triphony.com/concert/peace_concert2019/

 


CINEMA INFORMATION

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映画「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」
監督:ジョージー・ルーク
音楽:マックス・リヒター
出演:シアーシャ・ローナン/マーゴット・ロビー他
配給:ビターズ・エンド、パルコ(イギリス 2018年 124分)
◎3/15(金)よりTOHOシネマズシャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国ロードショー!
www.2queens.jp/