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孤独の王様、ゴダール最新作「イメージの本」を菊地成孔が紐解く 〈私たちに未来を語るのは“アーカイヴ”である──ジャン=リュック・ゴダール〉

Exotic Grammar Vol.62-1

孤独の王様、ゴダール最新作「イメージの本」を菊地成孔が紐解く 〈私たちに未来を語るのは“アーカイヴ”である──ジャン=リュック・ゴダール〉

孤独の王様ジャン=リュック・ゴダール最新作『イメージの本』
私たちに未来を語るのは“アーカイヴ”である──ジャン=リュック・ゴダール

「次回作に関するデマ」という最後の想像界

 今、SNSによるエビデンス社会で孤塁を守っているクリエイターはゴダールしかいませんし、ゴダールが死んだらもう誰もいないでしょう。ゴダールは、膨大な引用(映画、書籍、音楽)のクリアランスをしていません。それが、そのこと自体が、ゴダールの、意図しない完璧な反資本主義、反市場主義だとゴダール自身は恐らくわかっていません。『イメージの本』は、そのことの、最低でも一度の完成を意味している、と言えます。

 新作の0号試写が終わった段階で、「(誇張され、歪曲された)噂話」が伝わってくるクリエイターも、今やゴダールしかいません。『ゴダール  ソシアリズム』の時は「監督8人体制で、YouTubeでしか公開しない」と、まるで『ROMA/ローマ』の先駆のような、実しやかな噂が流れてきました。それはさすがに嘘だろうと思っていたら、あの驚異のトレーラーがYouTubeにアップされ、噂は誇張されているけど、だからと言って完全な嘘でもなかったし、何せ、「豪華客船で盗撮=写り込んでいる人々の顔がぼかされていない=肖像権の完膚なきまでの侵害」という、『イメージの本』に直結する「意図せず到達した反市場主義」という無意識的なミッションを実行していました。

 そして『さらば、愛の言葉よ』の時は「大変だ、次のゴダールは3Dらしいよ」という、飛び上がって喜んでしまいそうなバカバカしい法螺話が飛び込んできたと思ったら、それは何と事実でした。ちょっと寂しかった(ゴダールの新作情報までが、単なる正しさだけで伝えられるなんて)けれども、映画は、全然飛び出す必然のないものばかりが飛び出して、最高でした。「映画において、飛び出す必要性とは何か?」とゴダールは明らかに訴えています。本当に素晴らしかった。

 そして本作、『イメージの本』に関する噂話は、こ云うものでした。“人間は1人も登場せず、セリフは全てAIが喋る。ゴダールが今はまっている事は、自分が書いたセリフをAIに喋らせる事で、ファブリス・アラーニョがゴダールの独白やタイプ打ちを片っ端からスマホに突っ込んでいる”という、これまた小躍りしそうになるほど素晴らしいもので、もうこの際、それが全部、単なる事実だって構わない、もうそういう時代なんだし、そして、こんなに面白い話があるか。と、ワクワクしていたら、これは懐かしの、誇張された、というか、戯画化された噂話でした。

 人、少なくとも俳優はゴダール以外出てこない(ゴダールすらほぼほぼ出てこない)。そして、AIの件は完全な揶揄的諧謔でした。ゴダールが延々と自分で喋っているからです。それは、時に噛み、時に痰が絡み、時に激昂すらする。恐ろしく生々しいもので、なので「AIが喋ってんだ」と、揶揄されたのでしょう。

 キーパンチする5本指(キーパンチは明らかに10本指だと思いますが)、5大陸、5感、5つの文化的始原(このうちガチなのは「指入力=言語=映像」だけで、あとは盛られた虚仮威しだと思います。ゴダールはブレヒト演劇やあらゆる書物に倣って2時間の映画を章立てににする生理的と言って良い執着がありますが、今回もそう行ったものです)等に倣い、五節からなる『イメージの本』の第一節は《リメイク》といいます。

 そこでは“アレはコレのリメイクだ”とでも言いたげな(『JAWS』のホオジロザメの顔面は、二次大戦の爆撃機〈フライングタイガー〉の機体プリントのリメイクだ。とか)あるいは、何を言いたいのか全くわからない、分かることといえば「前作からスマホを手にしたから、スマホのワンフィンガー・エフェクトを使いまくってるな」というだけの、それはそれは死ぬほど美しいコラージュが延々と続きますが、本作のために撮影され、使用されたフィルムは恐らく30秒に満たない。そして、コラージュだけで出来た本作のナレーションは、前述の通り、ほぼほぼ全部ゴダール。ですので、「イメージの本って、どんな映画?」という極めて雑な質問には『映画史の単品版』が、あんまり面白くはないけれども、模範回答と言えます(全8本の『映画史』を1本にまとめた『映画史特別版/選ばれし瞬間』とは、出来もリージョンも違いすぎます)。

©Casa Azul Films – Ecran Noir Productions – 2018

 ただ、『映画史』よりも、モンタージュ技術、チョイスされた素材(映画、音楽、書籍)の膨大な数とセンス、フィルムというよりセリー音楽のような、その繋がり、何よりかなりオーヴァー・ドライヴなエフェクト効果(有名な作品の有名なシーンが、ハレーションで何が写っているかわからないぐらいに真っ白になってる、とかetc)等の総合力において、『映画史』全巻を遥かに凌ぐ完成度と美しさを誇っています。

 この部門では、ゴダールは間違いなく世界一でしょう。ただ、公にこの競技に参加できるのはゴダールだけなので、ゴダールは、対戦相手のいない競技で1位を獲り、そしてカンヌでは、パルムドールより上の“スペシャル・パルムドール”という、英語とフランス語が混じっちゃってる事からも明らかな、かなり雑な権威(なんか、ラスボスを倒したら、「実は奥に超ラスボスが居たんだもんねー」みたいな、若干、児戯みたいなところのある幼稚な権威ですよね。ホール・オブ・フェイムみたいな名誉賞でもない訳ですから。以降、ゴダールが出品した年のパルムドールは、自動的に、実質準パルムドールになってしまう)の座にすわりました。

 なんという孤独でしょう。カリーナと並び、存命中のヌーヴェルヴァーグ・トリコロールの一角、ルグランも亡くなりました。

 世界中の人々、ホームレスぎりぎりの人までが、路上で寝ていて、警官に揺すられ、ポケットからスマホが落ちてきたりするこの時代に、ゴダールの果敢なスマホ使いは、アマチュアと同じテクノロジーを使って天才性を見せつける、ヌーヴェルヴァーグ時代から全く変わらないゴダーディズムです。しかし、繰り返しますが、「名画をエディットして、スマホの中で加工する」なんて、誰にだってできる、代わりに、誰にも発表できないわけですから、ゴダールの天才性は、どんどん孤独になって行きます。

 

「ECM使い放題」VS「ミュージカル・アドヴァイザー」

 そもそもゴダールは80年代に、マンフレッド・アイヒャーから、ECMの全ての音源の使用許諾を貰い、以後「ECM映画」と揶揄されるほど、ECM音楽ばかり使うようになりました。それより前は映画音楽の巨匠と仕事をしても、上手くいきませんでした。さらに前には、部屋にあったバッハやモーツァルトやベートーヴェンを適当に流していた(&フェードアウトできず、自分で針をあげてブツっと切っていた)筈ですから、初心に戻ったとも言えますが、この瞬間にゴダールは権利の侵害について、ズルズルになったと思います。

 ゴダールは60年代から、抜粋と引用は異なるものであり、芸術的・商業的利益を引き出すための「抜粋」に謝礼を払うのは当然だが、それとは別に批評的な「引用の権利」というものがあるのだと強弁し続け、“『映画史』をTV放映しても誰も何も言ってこなかった”とまで発言しました。その後、権利の侵害で告訴され、敗訴していますが、これは挿話としても小さすぎるので詳述はしません。そして今や、「ゴダールに引いてもらえるなら光栄」ぐらいの玉座に座っています(まだフランス公開の目処が立ってないらしいので、ひょっとすると何かが転倒したのかもしれません)。リア王であり道化でもある。

 合衆国は今、禁酒法時代や大恐慌時代と似て、倫理観が病的に厳格になっている事はどなたもご存知でしょう。やっと固まった肩書き名「ミュージカル・スーパーヴァイザー」ですが、これはハリウッド映画に於いて、劇伴であるOST(オリジナル・サウンドトラック)とは別に、既成曲をDJのように選曲し、劇中に配置し、クリアランスまで請け負う仕事で、つまり現在の合衆国映画の音楽は、タンデム体制になっている訳ですが、当然これは、エンドロールの表記に於いても、極端に記述が厳格になり、出版元の明記は勿論のこと、何年の何というアルバムの何曲目、ぐらいまで書いてあるものが、一覧票になります。

 そして、『イメージの本』のラストは、この“一覧票”しかし、その意味はハリウッドとか全く別の、“文字列として美しい”だけ、という審美的なものです。ただただ、名前と作者名が書いてあるだけです。そして、これは話題になっていますが、日本映画で唯一引用されている溝口健二の『雨月物語』に関しては、恐らく忘却によって、リストアップされていません。

 「仇敵は似る」という詩的な現実がありますが、『イメージの本』のエンドロールと、一般的なハリウッド映画のエンドロールは、一見するだに見分けがつきません。この事は、本当にすごい。本稿で最も強調したいことです。

 他にも、第5節で描かれるアラブ社会に関する考察が、過去最高にロマンティークになっている事、引用にアラブ社会のポルノ映画まで召喚されている事、それがゴダール平均を遥かに超えて、直接的にエロティークである事、等々、語るべき箇所はまだまだ山ほどあるのですが、多くの語り部の方々に譲ります。

 

「連作化される遺作」という生への執着

 こんなにも美しい画面なのに、試写会場で眠らなかった人は一人もいませんでした。それは、「お爺ちゃんの長話」がずっとなり続いている、つまり強制的に孫にさせられる力が働いているからでしょう。ゴダールは映画100周年に際し「100年なんて大した長さじゃない。お婆さんを3回繰り返せば償却される長さだ」と言いました。これは、「曽祖父母」という人物が事実上存在感を無くしつつある、三代で全てが切られる社会に対する恥ずかし気のある警句とも言えるかもしれません。ゴダールはその最高位である「お爺さん」である姿を、本作で霰もないほど見せつけています。

 つまり、大変悲しいことに、ゴダールは遺作を連作化してしまっています。難しくて何を言っているかわからない言葉たちは消え去り、高校生レヴェルの警句や人生観が飛び交います。「我々は誰でも世界的欺瞞の共犯者だ」とか「戦争は神聖で、だからこそ魅惑的」とか「対位法はメロディが話声を生む」とか「言葉より行動は常に早い」とか「記号論的に記号化には否認の強要性がある」とかいった、驚くべきストレートな言葉を含んでいます。お爺ちゃんから恥ずかし気が消えてゆく。

 「流れ出したらブツっと切れる」ゴダールの音楽の扱いですが、本作は、ゴダール史上最短を記録しています。驚くべき速さで切れてしまう。それはまるで、鳴らしてはいけない、見てはいけない、言ってはいけない事を言いかけて、慌てて口をふさいだり電源を切ってしまうかの様で、我が国の倫理だと、女性の淫毛に当たると思います。「わー!見えちゃう!」と言って、慌てて股間を隠すかの様に。お爺ちゃんから恥ずかし気がむしろ増してゆく。

 画面はエロく、音楽は一番短い本作は、死への抵抗と、その抵抗への抵抗が悶絶する最後から何番目かの遺書、そのラストに引用されるのはマックス・オフュルスの『快楽』の“パーティーではしゃぎすぎて転んでしまい、顰蹙を買う男の悲哀”です。

 


ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard)
1930年12月3日、医師の父と、フランスの裕福なブルジョワ家庭出身の母のもと、フランス・パリに生まれる。48年ソルボンヌ大学に進学した後、カルチエ・ラタンのシネマクラブに通いはじめ、シネマテークの常連となり、フランソワ・トリフォーやエリック・ロメールらと知り合う。52年から「カイエ・デュ・シネマ」誌に映画評を書くようになり、59年に「勝手にしやがれ」でベルリン国際映画祭銀熊賞(最優秀監督賞)を受賞。“ヌーヴェル・ヴァーグ”の一員として頭角を現す。ヌーヴェル・ヴァーグ作品の特徴である即興演出、同時録音、ロケ性が高く評価され、現在も多くの作品に影響を与え続けている。88歳になる現在も次作製作に意欲的である。

 


寄稿者プロフィール
菊地成孔(Naruyoshi Kikuchi)

音楽家/文筆家/音楽講師 ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィ ゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。

 


FILM INFORMATION

映画『イメージの本』
監督・脚本・ナレーション:ジャン=リュック・ゴダール
編集:ジャン=リュック・ゴダール/ファブリス・アラーニョ
撮影:ファブリス・アラーニョ
配給:コムストック・グループ(2018年 スイス・フランス 84分)
原題:LE LIVRE D’IMAGE(英題:THE IMAGE BOOK)
◎4/20(土)、シネスイッチ銀座ほか全国ロードショー!
jlg.jp/

 


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