孤独の王様ジャン=リュック・ゴダール最新作「イメージの本」
私たちに未来を語るのは〈アーカイヴ〉である――ジャン=リュック・ゴダール

〈次回作に関するデマ〉という最後の想像界

 今、SNSによるエビデンス社会で孤塁を守っているクリエイターはゴダールしかいませんし、ゴダールが死んだらもう誰もいないでしょう。ゴダールは、膨大な引用(映画、書籍、音楽)のクリアランスをしていません。それが、そのこと自体が、ゴダールの、意図しない完璧な反資本主義、反市場主義だとゴダール自身は恐らくわかっていません。「イメージの本」は、そのことの、最低でも一度の完成を意味している、と言えます。

 新作の0号試写が終わった段階で、〈(誇張され、歪曲された)噂話〉が伝わってくるクリエイターも、今やゴダールしかいません。「ゴダール  ソシアリズム」の時は〈監督8人体制で、YouTubeでしか公開しない〉と、まるで「ROMA/ローマ」の先駆のような、実しやかな噂が流れてきました。それはさすがに嘘だろうと思っていたら、あの驚異のトレーラーがYouTubeにアップされ、噂は誇張されているけど、だからと言って完全な嘘でもなかったし、何せ、〈豪華客船で盗撮=写り込んでいる人々の顔がぼかされていない=肖像権の完膚なきまでの侵害〉という、「イメージの本」に直結する〈意図せず到達した反市場主義〉という無意識的なミッションを実行していました。

 そして「さらば、愛の言葉よ」の時は〈大変だ、次のゴダールは3Dらしいよ〉という、飛び上がって喜んでしまいそうなバカバカしい法螺話が飛び込んできたと思ったら、それは何と事実でした。ちょっと寂しかった(ゴダールの新作情報までが、単なる正しさだけで伝えられるなんて)けれども、映画は、全然飛び出す必然のないものばかりが飛び出して、最高でした。〈映画において、飛び出す必要性とは何か?〉とゴダールは明らかに訴えています。本当に素晴らしかった。

 そして本作、「イメージの本」に関する噂話は、こう云うものでした。〈人間は1人も登場せず、セリフは全てAIが喋る。ゴダールが今はまっている事は、自分が書いたセリフをAIに喋らせる事で、ファブリス・アラーニョがゴダールの独白やタイプ打ちを片っ端からスマホに突っ込んでいる〉という、これまた小躍りしそうになるほど素晴らしいもので、もうこの際、それが全部、単なる事実だって構わない、もうそういう時代なんだし、そして、こんなに面白い話があるか。と、ワクワクしていたら、これは懐かしの、誇張された、というか、戯画化された噂話でした。

 人、少なくとも俳優はゴダール以外出てこない(ゴダールすらほぼほぼ出てこない)。そして、AIの件は完全な揶揄的諧謔でした。ゴダールが延々と自分で喋っているからです。それは、時に噛み、時に痰が絡み、時に激昂すらする。恐ろしく生々しいもので、なので〈AIが喋ってんだ〉と、揶揄されたのでしょう。

 キーパンチする5本指(キーパンチは明らかに10本指だと思いますが)、5大陸、5感、5つの文化的始原(このうちガチなのは「指入力=言語=映像」だけで、あとは盛られた虚仮威しだと思います。ゴダールはブレヒト演劇やあらゆる書物に倣って2時間の映画を章立てににする生理的と言って良い執着がありますが、今回もそう行ったものです)等に倣い、五節からなる「イメージの本」の第一節は〈リメイク〉といいます。

 そこでは〈アレはコレのリメイクだ〉とでも言いたげな(「JAWS」のホオジロザメの顔面は、二次大戦の爆撃機〈フライングタイガー〉の機体プリントのリメイクだ。とか)あるいは、何を言いたいのか全くわからない、分かることといえば〈前作からスマホを手にしたから、スマホのワンフィンガー・エフェクトを使いまくってるな〉というだけの、それはそれは死ぬほど美しいコラージュが延々と続きますが、本作のために撮影され、使用されたフィルムは恐らく30秒に満たない。そして、コラージュだけで出来た本作のナレーションは、前述の通り、ほぼほぼ全部ゴダール。ですので、〈イメージの本って、どんな映画?〉という極めて雑な質問には「映画史の単品版」が、あんまり面白くはないけれども、模範回答と言えます(全8本の「映画史」を1本にまとめた「映画史特別版/選ばれし瞬間」とは、出来もリージョンも違いすぎます)。