〈探し求める努力〉、〈危機感を持つ/確信を持たない〉生き方に学ぶ

フランソワ・ドゥラランド クセナキスは語る いつも移民として生きてきた 青土社(2019)

 シンプルで直截的な邦題。原題はちょっと違っている。〈つねに移民の意識を持っていなくてはならない〉。このことばが本文中でどうでてくるか。

 いつも新しいまなざしを養わなくてはならない。すなわち、距離をもつことが必要なのです。つねによそもの移民の意識を持っていなくてはならない。すべてにおいて。それでこそさらに新鮮で、鋭く、深いまなざしでものごとを見ることができるのです。なぜなら、そうすることで私たちが今いる環境、浸りきっている環境に安心することがなくなる。安心して慣れきってしまうと、もはや自分たちの環境がどんなものかさえ見えなくなってしまうのです。そうすると、それは家具と同じことですね。すべてが家具調度品になってしまう。

 家具、に目がいく。つかっているけれど、ないのと変わらず、はたらき、用途だけで、モノとしては透明に等しい。慣れてしまう。特に意識しない。目にはいらない。

 このことばが発されたのは四十年ちかく前。その後、家具はもっと拡大、多様化した。パソコンやスマフォのような〈外〉のモノ、ハードウェアのみならず、ソフトウェアも家具化してきている。さらに、音楽は、多くの人にとって家具に化していないか。いや、発話者はここで音楽なんて言ってない。いないけれども、まわりをみまわしてみたとき、そうおもえるところがないか。

 文章を、終わりから遡る。家具をとりまく 〈環境〉へ。〈環境〉に目をむける〈移民〉へ。多くの人たちはとくに意識しないまま家具をつかいつづける。そんな環境、だから環境とおもい、それをふつうだとおもう。おもうことなく、おもっている。それを外から、距離をもって、見る。それが〈移民〉の視線。そうした視線をこそ、保ちつづけなくてはならない。注意しなくてはならないのは、くれぐれも安易に、クセナキスじしんが移民で、などと回収してしまわないこと。もひとつ加えておくなら、ヨーロッパ内外で、そしてこの列島で、〈移民〉という視点、問題系が(クセナキスの発言から数十年のあいだに)どれだけ浮上したか、顕在化したか、しなければならなかったか。

 本書で、クセナキスはみずからの音楽について語る。比較的わかりやすく語る。もちろんおもしろい。と同時に、いやそれ以上に、〈探し求める努力〉、〈危機感を持つ/確信を持たない〉といった生き方、〈家具〉にならない芸術を求める姿勢、倫理を、読めるんじゃないか。そう読んだほうがいいんじゃないか。そんなふうにおもっている。