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©RYUYA AMAO

Brad Mehldau – So far, so near
Brad Mehldau Trio
Friday, May 31, 2019
Suntory Hall, Tokyo Japan

 そのピアニストはピアノの音がホールの響きの中に現れるのを待つかのようにピアノを弾いた。足元にモニターはなく、ホールの反射する音を浴びるようにピアノに向かって鍵盤を静かに押すその姿は、とても印象的だった。サントリーホールのステージ中央に集まったトリオはまるでピアノを囲んだキャンプのように映った。大ホールの舞台上でそれほど三人の距離は近く見えた。三日間をトリオで、一日をソロという日程のホール公演を、そのピアニスト、ブラッド・メルドーは終えようとしていた。

 ジャズを演奏するピアニストにとってホールはどんな場所なのだろう。かつてマッコイ・タイナーは、ホールの残響がジャズの早いフレーズやドラムのシンバル・レガートを濃い霧でつつんでしまうように感じた、だから残響の長さを考慮して演奏のテンポを決めるようになったと教えてくれたことがある。確かにクラシックにおいても同じ曲を残響の長いホールで演奏した場合と短いホールでの場合を比べると前者の方がテンポが遅くなるケースが多くなるようだ。ブラッド・メルドーはステージの上でサントリーの大ホールの響きをどんな風に感じていたのだろうか。ドラマーのジェフ・バラードは、ミニマムにセッティングされたドラムセットから、ステディーなリズムを二人に供給していた。ベースのラリー・グレナディアもそうである。二人の動きはミニマム、というか禁欲的ですらあった。それぞれの頭の中に現れる音を忠実に演奏することに集中している、そんな様子だった。舞台上の彼らはモーツァルトを演奏する弦楽四重奏団のようにも見えた。室内楽の演奏者たちのように三人は、二千人を超える聴衆に囲まれながら、ジャズを楽しんでいる、そんな舞台だった。しかし比喩ではなくトリオのジャズは確かに、モーツァルトの音楽とクレヴァーな簡潔さを共有していた。そしてその簡潔さはホールをとても綺麗に響かせた。

 ブラッド・メルドーのピアノの魅力は、なんといっても美しいタッチとアーティキュレーションの正確さで両の手から溢れ出るように紡ぎ出されるラインの美しさ、だろう。90年代からリリースされ続けるトリオのアルバムを振り返れば、2005年にドラマーが今回来日したジェフに交代しながらも成長し続けるメルドーのピアノトリオへのアプローチやアイデアをたどることができる。初期のアルバムには、随分トリッキーな拍子でスタンダードを演奏するピアニストのトリオだな、という印象があった。たとえば95年の初のトリオアルバムでは、“It Might As Well Be Spring”を7拍子で演奏してみたり、2枚目『The Art Of The Trio, Vol. One』の、エラ・フィッジェラルド、あるいは日本では菊地成孔のペペ・トルペント・アスカラールの演奏で親しまれている“I Didn’t Know What Time It Was”を5拍子でしれっと演奏している。前者では一拍かけて、後者では一拍増えるというわけだ。こうしたアプローチの白眉とも言えるのが、『The Art Of The Trio』の4枚目冒頭に収録された“All The Things You Are”ではないかと思う。メルドーの7なのか8拍なのかはっきりしない冒頭の長いイントロを経て、三人が合流して8拍(8/4)の周期に落ち着く。このときのメルドーのアイデアはおそらく、クラーヴェによるモントゥーノと4ビートのクロスリズムというか、この二つのリズムを使ったマルチグルーヴだったのではないかと思う。今回このようなリズムのアプローチの面白さが聴けたのは、実は“Into The city”だけだった。おそらくこの曲のアイデアは12拍で一周する周期を重ね、そのたびに12拍内の分割を微妙に変化させるという、メルドーよりは若い世代のピアニスト、ティグラン・ハマシアンがよくやるマルチ・パルス的なものではないだろうか。そう言えばリズムだけをとってみると、今回のトリオの演奏は随分寡黙だなと感じた。アンコールの一曲目に演奏された“My Favorite Things”も、まるでジャズの歴史をジョン・コルトレーン以前にリセットするかのように端正なジャズ・ワルツだった。しかし多分このトリオの端正な佇まいこそがこのサントリーホールの響きがトリオにもたらした最高の化学反応だったのではないか。それがモーツァルトのようにクレヴァーな簡潔さという印象を生んだのだろう。与えられた場所、環境で演奏は当然変化するだろうし、即興的に音楽を変化、あるいは変身させるのがジャズ・アーティストなのだ。メルドーのトリオには、その最高の演奏家が集まっているわけだから、今回もコンサートごとに彼らの違ったアプローチを楽しめたのではないかと思いながら、サントリーホールでの演奏を楽しんだ。

©RYUYA AMAO

 本公演でのメルドー・トリオの端正な演奏は、リズム以外でも際立っていたことがあった。それはジャズならではの八分音符が紡ぐオーセンティックなメロディラインの美しさである。たとえば唯一アップテンポで演奏された“Airegin”では、一瞬すべてが停止したかと思えるほどスタティックに聴こえた。つまりそれほどメルドーが弾くラインが美しかったのだ。

 今回、曲ごとにグルーブを固定して展開するメルドーの演奏はかつてのレニー・トリスターノのグループのようにも聴こえ、意外に聞こえるかもしれないがフランキー・ダンロップというドラマーが在籍していたセロニアス・モンクのバンドすら思い出させた。さらにそんなにジャズを聴かない人には恐縮だが、突然、トニー・ウィリアムスのトリオにいたマルグリュー・ミラーというピアニストを思い出した。いずれにしてもモンク、トリスターノやミラーはピアノにおけるジャズ本来のグルーヴがどうやって生まれるのかを熟知しその生成原理を極めた演奏家である。そしてメルドーのピアノには間違いなくその一番濃い血が備わっている。

 八分音符(あるいは16部音符)と言えばクラシックでは、バッハだろう。昨年メルドーは『After Bach』と題したアルバムを発表している。バッハの平均律から四曲を選んで演奏した後、自らの解釈を施した演奏を録音するというコンセプト・アルバムだった。冒頭、“Before Bach”と題し一曲演奏している。一聴、ヒンデミットの“Ludas Tonalis”という平均律同様の考えに基づいて作曲されたピアノ曲を想像させるこのメルドーの音楽は、アフターではない、ポスト・バッハといえる世界を作り出していた。2010年に発表された『Highway Rider』でメルドーは、アルバム制作に及んだのはTwo Parts Melodyという手法を確立したからだと彼自身が寄稿したライナーノートに書いている。この手法は呼応し合う二つのメロディを核にして作品、ひいてはアルバム全体を統一的に構築するというセマティックなアイデアだ。彼のこのアイデアは、早い段階でピアノトリオの演奏において右手と左手が別々に呼応しあうかのように演奏され、ラインを別々に構成する二つのフレーズとして現れていた。このアプローチは、トリオではホリゾンタルに展開するアイデアだというのも特徴的だ。今回、何度かメルドー・シグネチャーとも言える彼固有のこのアプローチがクリアな音響空間の中に聴こえた。

 ブラームスのクラリネット四重奏に寄せてメルドーが書いた文章の中で、音楽との自分の距離を〈So near, yet so far〉だと表していた。しかし、ホールで彼の演奏を聴いていた誰もが今回〈So near, yet so far〉と感じたに違いない。

(text: 高見一樹)

 

 


ブラッド・メルドー(Brad Mehldau)
1970年8月23日、フロリダ州マイアミ生まれ。本格的なクラシック・ピアノの教育を6歳からを受け、14歳でジャズ・ピアノに傾倒する。ニューヨークのクラブを拠点に、たちまち頭角を現すと、94年にはジョシュア・レッドマン・カルテット『ムード・スウィング』のセッションに抜擢され、一躍世界中の注目を浴びる。そこでの演奏が認められワーナー・ブラザーズと契約し、95年にメジャー・デビュー作『イントロデューシング・ブラッド・メルドー』を発表し、〈同年の最優秀ジャズ・アルバムの一つ(ワシントン・ポスト紙)〉と賛辞を浴びた。メルドーの音楽はスタンリー・キューブリック監督の「アイズ・ワイド・シャット」、ヴィム・ヴェンダース監督の「ミリオンダラー・ホテル」を含め、数々の映画音楽にも起用された。フランス映画「僕の妻はシャルロット・ゲンズブール」のオリジナル・サウンドトラックも手掛けるなど、活躍の幅は広い。 

 


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