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映画「パラダイス・ネクスト」 音と映像で再構築された〈台湾〉は、〈亡命者〉たちの救済の地=〈楽園〉となり得るのか?

©2019 JOINT PICTURES CO.,LTD. AND SHIMENSOKA CO.,LTD. ALL RIGHTS RESERVED

音と映像によって緻密に再構築された「台湾」は、その倦怠と停滞の力で「亡命者」たちの救済の地=「楽園」となり得るのか?

 映画音楽の仕事でも世界的に著名な音楽家・半野喜弘が挑む二本目の監督作品『パラダイス・ネクスト』を見つめながら、異国の地モロッコで後半生を過ごし執筆を続けたアメリカ人作家ポール・ボウルズによる「観光客」と「旅行者」の差異をめぐる簡潔にして見事な定義を想起していた。それによれば、旅先でもいつも帰国について思いを馳せる観光客(tourist)に対し、旅行者(traveler)は、自分がどこか特定の土地に所属していると感じられず、旅先でそのまま一生を終える可能性もあるだろう存在である。

 この記述はボウルズの代表作である小説『シェルタリング・スカイ』で読まれ、同作は昨年末に死去したベルナルド・ベルトルッチの手で1990年に映画化された。両者の直接的な関連としては、その映画化に際し音楽を担当した坂本龍一が本作でも素晴らしい楽曲を提供している点が挙げられるが、それだけではないはずだ。台湾での全編ロケが敢行された本作では、二人の日本人男性が「旅行者」の立場で異国の地を彷徨う。いや、彼らの置かれた立場はさらに苛酷であろう。二人は日本である悲惨な事件に関わり、祖国への帰還を禁じられた「亡命者」であり、異国の地での死がほぼ決定づけられているのだ。映画の半ば辺りで二人は、台北の雑踏から東海岸の花蓮へと移り、前述の「事件」の犠牲者(日本人女性)にそっくりな台湾人女性とそこで出会うことで忌まわしい記憶を新たにするが、皮肉にも、その土地はこの世の楽園(パラダイス)のように美しくも閑散としている。

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 逆光で顔も判別できない殺し屋の男から、それらが何を意味するかもわからない、タイプライターや若い女性などの断片的なショットの目まぐるしいモンタージュへ……。映画の冒頭から徹底した不可解さに突き放された後に、問題の二人の「亡命者」が台北の屋台のテーブルを挟み、一定の距離をおいて向かい合う重要な場面へと僕らは行き着く。若い男(妻夫木聡)がほぼ一方的に話し続けるのに対し、中年男性(豊川悦司)はあからさまな無視の姿勢で沈黙を守る。それにしてもなぜこの場面は、僕らを呆然とさせるまでの長回しで撮影されるのか?

 それこそが、本作で音と映像を介して再構築される台湾(=楽園?)の基底を成す時間であるからだろう。長々と続く変化のない時間。北からの逃亡者を呪縛し、疲労と陶酔を混然とさせた生へと導く南の時間。そんな終わりのない時間にあって、登場人物たちは戻るべき場所、所属していたはずの場所を見失い、忘れそうになるが、忌まわしい記憶を抱えた存在にとってそれこそが楽園を意味する。西洋人を惑わす『シェルタリング・スカイ』の砂漠が本作での南の島の倦怠や停滞によって変奏され、継承されるのだ。しかし、僕らにとって帰るべき場所(=帰還という概念)の完全な忘却は途方もなく難しい。楽園の可能性/不可能性を問う本作における結末は、終わりなき倦怠と停滞の時間にそれでも穿たれるであろう「亀裂」によってもたらされるはずだ。

 


映画「パラダイス・ネクスト」
監督・脚本・音楽:半野喜弘
音楽:坂本龍一
出演:妻夫木聡/豊川悦司 ニッキー・シエ/カイザー・チュアン/マイケル・ホァン/大鷹明良/他
配給:ハーク(日本・台湾 2019年 100分)
◎7/27(土)より新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー!
hark3.com/paradisenext/

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