INTERVIEW

オダギリ ジョーが語る、長編初監督作品「ある船頭の話」に込めた映画への想い

オダギリ ジョーが語る、長編初監督作品「ある船頭の話」に込めた映画への想い

長編初監督作品『ある船頭の話』にこめた映画への思い

 いまから百年以上もむかし、時代区分でいえば明治後年から大正にかけて。明治維新により国家すなわち中央集権的なシステムが端緒をひらいたこの時代は、教育、行政、立法、産業構造の地殻変動的な急変にともない、ひとびとの生活にみすごせない変化がひたひたとおしよせた時代でもあった。オダギリジョー長編初監督作品『ある船頭の話』には上述のような設定がある。物語の主人公はトイチ、山あいの河を渡す船頭である彼はこちら側の村と川向こうの町を行き来する人々の足として彼らの生活にとけこんでいた。マタギ、牛飼い、おそらくは商人、後家さん、芸妓、町医者にいたるまで、トイチに渡しを所望する客は生業も性格も千差万別だが、質朴な暮らしぶりをにおわせるたたずまいがある。とはいえ近代化の波には彼らとて例外ではない。川上をみはるかせば、煉瓦づくりの巨大な橋ができつつあるのがわかる。村の人々は橋の完成で村と町の交通は容易になり、暮らし向きが変わるかもしれないと口にするのだが――そのような物語の背景がじょじょにあきらかになる冒頭の十数分は映像の美しさできわだつこの作品においても、とりわけ印象的な時間である。水面に映える光、河の流れに沿って移動するカメラがとらえる岩肌の肌理の陰影、向こうにみえる木々の緑のあざやかさ等々、ちかごろの映画が等閑に付しがちな風景(論)としての映画をゆっくりとたちあげる、これらの場面の撮影を担ったのはクリストファー・ドイル。ウォン・カーウァイ作品で世界に名を馳せたあのドイルである。

 「撮影は最初、クリスに丸投げしようと思っていたんです。いままで僕がつくってきた作品はほんとうに個人主義的なものでした。自分でカメラ回して編集も、音楽も全部自分でつくるような個人制作の映画だったんです。今回はいろんな方に入ってもらって、彼らにお力添えしていただきたいと思っていたので、映像にかんしては経験豊富なクリスに任せようと思っていたんですが、クリスは100パーセント僕の好きなようにやらせてくれて、完全にフォローする側にまわり、その立場をくずさなかった。結果的に、非常に良いバランスでこの世界観をつくることができたと思います」

 発言にあるとおり、オダギリジョーには数篇の自主映画の監督経験がある。今回初の長編映画の監督を決意したのはドイルの共同監督作品『宵闇真珠』(2017年)に出演したさい、ドイルの映画づくりに刺激を受けたのと同時に、「もしお前が監督するなら俺がカメラをやるから」というドイルのことばだったという。とはいえ撮影の現場は苦闘の連続だった。おもなロケ地は新潟の阿賀野川と福島の只見川流域で、ゴツゴツした岩場は撮影隊の移動を阻み、本来渡し舟に適さない河の上での撮影するために舟にロープをつけて三点でコントロールするなど、さまざまな創意工夫が必要だったとオダギリ監督は告白する。

 「いずれもあの場所を選んだ時点で想像できたことでしたが、それも自然との戦いだから、こっちが思うようにいかせるほうがムチャな話だと思うんです。この作品は自然や動物と向き合わなければならない作品だったから、スタート時点から苦しいことを選んだ作品だったんだなと思っています」

©2019「ある船頭の話」製作委員会

 峻険や山々と蜿蜿とした河の流れと人物との対比は『ある船頭の話』が舞台に設定する明治の世にうまれた国木田独歩の「忘れえぬ人々」(1898年)さながら、作り手の内面の反照としての風景を意味するかに私にはみえる。柄谷行人、加藤典洋はじめ、幾多の論者がとりあげた独歩の作品における風景(論)は近代化をひとつの機制とみなす点で『ある船頭の話』のテーマとも通底する、その一方でこの映画の風景のあり方は足立正生と松田政男が『略称・連続射殺魔』(1969年撮影)でうちだした「風景映画」の概念にもさほど遠くない場所にある。すなわち首都も辺境も画一化する途上にあらわれる均一な風景への批判である。

 オダギリ監督は今回の取材で「失われていく」ということばを何度か口にした。それはときに、古きよき映画文化を意味すると同時に、雑誌やテレビといった彼が俳優として日々かかわるメディアの変化や、その根底にある利便性と経済合理性を追求する私たちの手からこぼれおちていくものをさしてもいた。およそ10年前に脱稿したという脚本を、2010年代も暮れようとしているいま、オダギリ監督が作品化にこぎつけたのは、その物語がはからずも現代的なテーマを担っていたことをあかしてもいる。ただしホンだけでは映画にならない。撮影時のエピソードは物語がこの世界で映画としてかたちをなすまでのほんの一端であり、発言の端々にうかがえる「監督」ということばにたいする自問自答にも似た響きも、映画のあらゆる局面にたずさわる監督業への畏怖の念に由来するのではないか。

 むろん映画監督は映像ばかりか音楽にも責任をもつ。『ある船頭の話』はアルメニア出身で米国在住のピアニスト、ティグラン・ハマシアンがはじめて映画音楽を担当した作品でもある。

 「ティグランとの出会いはYouTubeでみた『Markos And Markos』のPVでした。ちょうど台本を直している時期で、やろうとしている世界観とすごく似ていると思ったんです。このままこのひとにお願いできないかなと思い、連絡して台本を送ったらものすごく気に入ってくれました。もともと彼は日本に興味があったんでしょうね。古い日本映画についてもよく話し合いました。本人の価値観も含めて、名声とかお金にとらわれないタイプのひとだし、自分が純粋に音楽をやることを大切にしているから、この作品が描こうとしているテーマにぴったりハマッたんだと思うんです」

 オダギリ監督とティグランは、曲調はいうにおよばず、器楽編成から編集と音楽のテンポのかねあいにいたるまで、細かく何度もスカイプでうちあわせを重ねたという。したがって音楽には共同作業的な側面があったが、「同時にティグランの即興性を尊重したいと思っていました。こちらの要望は伝えたとしても、彼の自由は確保しておきたかったということですね」

LAでのティグランとのレコーディング風景

 最終的にLAで、10日あまりの録音作業を経て完成した音楽は《Markos And Markos》を収録するティグランの8作目『An Ancient Observer』(2017年)を彷彿する流麗さをそなえながら抑制的で映像喚起的な作風にしあがっていた。劇場のあかりがついたとき、観客の耳にのこるのは、いたずらに日本的な情緒に走らずとも、映画にぴったりよりそう彼の音楽のゆたかさだろう。

 「不思議に、日本の古い時代を舞台にした映画であっても、彼の音楽が合うと思ったんです。それをティグランに伝えたら、民族音楽はそういうものだというんですね」

 民族の、あるいは民俗の音楽とはそれが伝播する集合の区分をさすと同時に、そこに属する個々の生活に根ざしたものでもある。時代に翻弄される名もなき、しかし忘れえぬ人々の姿を、その朴訥さのみならず、内心の底知れなさまで、虚心にとらえようとする『ある船頭の話』は野心的なスタンスのみならず、スタッフ、キャストの多彩さもふくめ、今年いちばんの注目作といえるだろう。

 


オダギリ ジョー(おだぎり・じょー)【1976-】
1976年2月16日生まれ、岡山県出身。アメリカと日本でメソッド演技法を学び、03年、第56回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品された『アカルイミライ』(黒沢清監督)で映画初主演。その後、日本アカデミー賞、ブルーリボン賞を始め国内外の数々の賞を受賞。その活動は国内だけにとどまらず、海外作品にも多く参加している。18年は『宵闇真珠』(ジェニー・シュン/クリストファー・ドイル監督)が公開。待機作に『SATURDAY FICTION』(ロウ・イエ監督)、『人間、空間、時間、そして人間』(キム・ギドク監督)。これまでの監督作は『バナナの皮』、『Fairy in Method』(共に自主制作短編)、第38回ロッテルダム国際映画祭招待作品『さくらな人たち』(09/中編)。テレビ朝日の連続ドラマ『帰ってきた時効警察』(07)第8話では脚本、監督、主演の3役を務めた。今年秋には『時効警察』の新シリーズ『時効警察はじめました』が12年振りに復活する。

 


CINEMA INFORMATION
映画『ある船頭の話』
出演:柄本明/川島鈴遥/村上虹郎/伊原剛志/浅野忠信/村上淳/蒼井優/笹野高史/草笛光子/細野晴臣/永瀬正敏/橋爪功 ほか
撮影監督:クリストファー・ドイル
衣装デザイン:ワダエミ
音楽:ティグラン・ハマシアン
配給:キノフィルムズ(2019年  日本  137分 PG-12)
©2019「ある船頭の話」製作委員会
www.aru-sendou.jp
◎9/13(金)新宿武蔵野館ほか全国ロードショー!

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