もっとも成功した姉妹グループのひとつとして、時代の変化に応じて音楽性やスタイルを大きく変え、結果として70~80年代に絶大な成功を収めてきたポインター家の姉妹たち。現代シーンとの繋がりで語られることは少ないだけに、いまこそその歴史を辿ってみよう!

 ソウル・ミュージックに限らず、70年代以降の姉妹グループにとってポインター・シスターズはロールモデル的な存在だったのだろう。シスター・スレッジ、ノーランズ、そしてデビューは1年ほど早いが70年代後半にブレイクしたジョーンズ・ガールズなど、多くの姉妹がポインター・シスターズをお手本にして時代を駆け抜けていった。一方、そんなポインター姉妹は、1930~40年代のジャズをはじめとするオールド・タイム・ミュージックへのノスタルジーや憧憬を打ち出し、アンドリュース・シスターズやマクガイア・シスターズの系譜を継ぐようなスタイルでブレイク。基盤にあるのはゴスペルだが、白人にも受け入れられやすいポップなセンスが80年代にかけて多くのクロスオーヴァー・ヒットを生む力となった。ただ、その音楽性やヴォーカル・スタイルは77年以前と78年以降とでは大きく違う。

 出身地はカリフォルニア州オークランド。映画やダンス・パーティーもご法度という厳格な牧師の家庭に生まれ育った姉妹は、当然のように教会の聖歌隊で歌いはじめた。が、父親の留守中にロックンロールやリズム&ブルースを聴き漁っていたという彼女たちは、4姉妹のうち下の2人にあたるボニー(50年生まれ)とジューン(53年生まれ)が69年にポインターズ・ア・ペアとして地元のクラブで活動を始め、一気に世俗との距離を縮めている。そこに年長の姉妹であるアニタ(48年生まれ)、最後にルース(46年生まれ)が加わってポインター・シスターズが誕生した。

 70年代初頭にアトランティックと契約して出したシングルではワーデル・ケゼルグと組んでハニー・コーンのような溌剌としたソウルを歌っていた姉妹。やがてブルー・サムと契約し、最初に飛ばしたヒットがリー・ドーシー“Yes We Can Can”(アラン・トゥーサン作)のカヴァーで、ニューオーリンズとの縁を感じさせる初期の作品からしてルーツ音楽的なものへの意識があったのだろう。そんなアプローチも含めてブルー・サム時代(73~77年)の姉妹を、30~40年代風のファッションも含めてコーディネイトしたのが、後にアラン・トゥーサンからバトンを受け継いでラベルを手掛けるデヴィッド・ルービンソンだった。彼は姉妹のゴスペルやソウルのルーツをジャズと融合させたが、何よりも彼女たちのテクニカルなコーラス・ワークやリズム感が圧倒的で、ブルー・サム時代には後のマンハッタン・トランスファーのようにランバート・ヘンドリックス&ロスを意識したようなヴォーカリーズも披露している。また、この時代にはアニタとボニーが書いた直球のカントリー・ソング“Fairytale”も話題に。グラミー賞の〈最優秀カントリー・デュオ/グループ〉部門で見事栄冠に輝いた同曲は、〈黒人アーティストによる自作のカントリー・ソング〉という意味で、リル・ナズ・X“Old Town Road”の元祖的な一曲だと見るメディアもある。

 こうして初期から多面的な魅力を放っていた彼女たちだが、ブルー・サム後期にはスティーヴィー・ワンダーらの力も借りてストレートなソウルを歌っていた。同じ頃にはルービンソンが手掛けていたヘッドハンターズの“God Make Me Funky”(75年)にフィーチャーされたほか、リチャード・プライヤー主演のブラック・シネマ『Car Wash』(76年)に出演し、ノーマン・ホイットフィールド制作の同サントラにも収録された“You Gotta Believe”を歌ってオークランド・ファンクのお膝元から出てきた姉妹らしいレディー・ファンカーぶりを発揮している。その気風は、ファッションを含めたスタイリッシュなレトロ趣味も含めて同郷のアン・ヴォーグに受け継がれたという気がしなくもない。

 ところが78年、ボニーがソロ転向のために抜けて3人組になると、グループの音楽性は大きく変化する。今度はリチャード・ペリーをブレーンに迎え、レーベルもペリー主宰のプラネットに移籍。もともと備わっていた姉妹のクロスオーヴァーな感覚が、ニルソンやカーリー・サイモン、リンゴ・スター、バーブラ・ストライサンドらを手掛けてきたペリーのポップなセンスによってさらに浮き彫りとなった。何しろプラネットからの初ヒットは、ブルース・スプリングスティーン作の“Fire”。この曲の全米チャートでの成績はポップ2位に対してR&B14位という、ある意味狙い通りの結果に。以降、ポップ/R&Bの両チャートで10位以内にランクインしたAORマナーの“He's So Shy”や“Slow Hand”もポップ・チャートのほうが好成績となり、〈非黒人にも支持されるポインター・シスターズ〉というイメージが定まっていく。ゴスペル由来のエモーショナルなヴォーカルをロック~ポップスのサウンドに乗せて際立たせ、幅広い層の関心を惹くというペリーの試みは見事に成功したのだ。

 ペリーとの蜜月はプラネットがRCAに吸収されて以降も続いていき、エレクトロやニューウェイヴにも接近。プラネット時代にR&Bチャートでも高順位をマークした“Automatic”や“Jump(For My Love)”はその先駆けとなる曲と言っていい。また、“Neutron Dance”は最近、80年代カルチャーへのオマージュを込めたNetflixの人気シリーズ「ストレンジャー・シングス 未知の世界(シーズン3)」にてマドンナやハワード・ジョーンズ、ワム!などの曲と並んで使用されていたように、この時期のポインター姉妹は80年代アメリカン・ポップスの象徴として捉えられているのだろう。80年代にクロスオーヴァー・ヒットを飛ばした女性R&Bアクトとしてティナ・ターナーやホイットニー・ヒューストン級の存在感を見せつけた彼女たちは、USAフォー・アフリカ“We Are The World”(85年)にもコーラスで参加するほどの国民的グループとなったのだ。

 90年代前半にモータウンやSBKからアルバムを出した後はレコーディング作品が減ったが、過去の名曲と安定した歌唱力(特にルース)のおかげで、そのブランド価値が下がったことは一度もない。ソロとしても、脱退したボニーのほか、80年代にはジューン、アニタもアルバムを発表。テンプテーションズのデニス・エドワーズと結婚したルースの作品は共演シングル程度だが、彼女がデニスとの間に儲けた娘イッサ(78年生まれ)はやがてグループをサポートするようになり、2006年にジューンが他界してからは、ルースとアニタに加えて、ルースの孫にあたるサダコ(84年生まれ)が正式メンバーとなった。現在はルース、イッサ、サダコの3世代でツアーを行なっているようで、血筋を絶やすことなく活動を続けている。ポインター・シスターズとテンプテーションズ、ふたつのソウル・ストーリーを背景に持つイッサやサダコを中心としたレコーディング作品も聴いてみたいものだ。 *林 剛

左から、“Pinball Number Count”を収録した編集盤『This Record Belongs To』(Light In The Attic)、ポインター・シスターズが参加したヘッドハンターズの75年作『Survival Of The Fittest』(Arista)、76年のサントラ『Car Wash』(MCA)、ポインター・シスターズが参加したグレッグ・フィリンゲインズの85年作『Pulse』(Planet/BBR)、2019年のサントラ『Stranger Things, Season 3』(Legacy)