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ピクシーズ『Beneath The Eyrie』 新作を機に振り返るオルタナ・レジェンドの歩み

ピクシーズ『Beneath The Eyrie』 新作を機に振り返るオルタナ・レジェンドの歩み

同時代のインディー・ロック・シーンに絶大な影響を与え、90年代へ至る道を作りながらも解散……その不在時にもカリスマとして君臨してきたピクシーズ。復活後は安定して活動を推移している彼らの功績を、ニュー・アルバム『Beneath The Eyrie』のリリースを機に振り返ってみよう!

 まさかのリユニオンで世界中のファンを狂喜させたヴィヴィアン・ガールズがタグ付けされる〈ノイズ・ポップ〉というジャンルがすっかり定着したいまとなっては、どの時代の作品でもいい、ピクシーズを聴いてもノイジーなギター・サウンドと、ポップで、場合によってはドリーミーなメロディーのアンビヴァレンスはもはや想定内。驚きはそれほどではないかもしれない。だから、彼らがデビューと共に当時のリスナーに与えたインパクトを知るには、それなりに想像力が必要だ。

 アメリカのボストンで活動を始めたピクシーズがイギリスのインディー・レーベル、4ADからデビューした87年当時、USでもUKでも現在のノイズ・ポップに通じる新たなロックの胎動はすでに始まっていた。しかし、それがグランジ・ブームを経て、〈オルタナティヴ〉という言葉と共に認知されるのは、それから数年後。つまり、デビュー当時、ピクシーズはアンダーグラウンド・シーンから同じように頭角を現してきたソニック・ユース、ダイナソーJr、サウンドガーデンら——その後、グランジ/オルタナ・シーンの顔となるバンドと共に異端の存在だったことを今一度、思い出しておきたい。

 

ハスカー・ドゥとピーター・ポール&マリー

 そんなピクシーズの結成は、ロックがもっとも華やかだった80年代が折り返しに入った86年のこと。そもそもの始まりは、ブラック・フランシス(ギター/ヴォーカル)とフィリピン系のジョーイ・サンティアゴ(ギター)がマサチューセッツ大学アマースト校の学生寮で出会ったことだった。共にロック好きだったことで意気投合した2人は、ジャム・セッションを楽しんだり、ブラック・フラッグのライヴを観に行ったりしているうちにバンド結成の夢を膨らませると、大学をドロップアウト。ボストンに移り住んで、倉庫で働きながらバンド結成に向け、曲を作りはじめた。

 そして、86年1月。曲を作り貯め、バンドを始める準備を整えた2人は早速、地元紙にメンバー募集の広告を載せる——〈求む! ハスカー・ドゥとピーター・ポール&マリーが大好きなベーシスト〉。

 ちなみにハスカー・ドゥは、79年に結成されたミネアポリスのハードコア・パンク・バンド。その頃にはパンクのエッジを残しながら、メロディアスなギター・ロックを奏でるようになっていた。一方のピーター・ポール&マリーは、60年代から活躍する男女フォーク・トリオ。ボブ・ディラン“Blowin' In The Wind”のカヴァーや“Puff”のヒットが有名だ。

 このセンス、わかるか⁉ そんな気持ちも少なからずあったのかもしれない。しかし、理解されるにはハイレヴェルすぎたのか、ジョークだと思われたのか、広告を見て連絡してきたのは、たった1人。しかも、もともとはギタリストで、ベースは弾いたことがないという。それがキム・ディールだった。

 しかし、2人は彼女を大歓迎。続いてキムの双子姉妹にあたるケリーがドラマーに決まりかけるものの、そもそもドラマーではない彼女が自信がないと辞退したため、キムの夫の友人で、カナダのプログレ・ハード・ロック・バンド、ラッシュのファンだというデヴィッド・ラヴァリングを迎える。結果としてテクニシャンのドラマーがバンドの屋台骨を支えることになったが、プレイヤーとしての経験に頓着しないメンバー選びからは、ピクシーズが演奏の上手さを一番に考えていなかったことが窺える。

 早速ライヴ活動をスタートさせた4人だが、メンバー募集で示されていた通り、方向性がすでに決まっていたバンドが注目されるまでに、それほど時間はかからなかった。同じボストンのスローイング・ミュージズと共演した際、彼女たちのマネージャーとプロデューサーに薦められ、87年3月にはフランクの父親に1,000ドル出してもらって17曲のデモ音源をレコーディング。このデモがきっかけとなって4ADと契約を結ぶと、デモから8曲を収録したミニ・アルバム『Come On Pilgrim』で同年9月にデビュー。ボストン界隈でライヴを始めたばかりの新人バンドと4ADが契約したのは、すでにスローイング・ミュージズをデビューさせ、アメリカのバンドに興味を持っていたことももちろんだが、やはりピクシーズのサウンドが、それまで聴いたことがないものだったことが大きかったのだろう。

 ノイジーでポップということなら、ピクシーズも参考にしたに違いないジーザス&メリー・チェインが85年に『Psycho Candy』で衝撃のデビューを飾っているが、4ADのオーナーであるアイヴォ・ワッツ・ラッセルが当初〈ロックンロールすぎる〉と契約に二の足を踏んだことからもわかるように、ピクシーズはいかにもアンダーグラウンド・バンドらしいシュールリアリズムも持ちながら、同時にニヒルになりがちなアンダーグラウンド・シーンに風穴を空けるのに必要な過剰なエモーションとロック本来の熱量も持っていた。それが、80年代ロックの華やかさを虚飾だと考え、もっとガツンとくる、よりリアルな表現を求めつつあったリスナーの欲求に見事に応えたのだろう。『Come On Pilgrim』はいきなりUKインディー・チャートの5位に食い込み、ピクシーズの存在をアピールした。

 

張り詰めた緊張から生まれた名作たち

 それからわずか半年後、ミュージシャンとしての成功を足掛かりにプロデューサー業にも乗り出していたスティーヴ・アルビニと組んだファースト・アルバム『Surfer Rosa』をリリースして、ピクシーズはその評価と人気を決定づける。UKインディー・チャートの2位を記録したことに加え、“Bone Machine”、キムがリード・ヴォーカルを取る“Gigantic”、“Where Is My Mind?”といった人気曲を収めた同作を最高傑作に挙げるファンは少なくないが、ニルヴァーナのカート・コバーンは、このアルバムを聴いて、後に自分たちの『In Utero』(93年)にアルビニを起用しようと思ったというから、アルビニのプロデューサーとしての成功は、ここから始まったと言っても過言ではない。

 ピクシーズとアルビニの作り上げたサウンドが以降のロックの源流の一つになったことは、カート・コバーンのみならず、スマッシング・パンプキンズのビリー・コーガンや、『Rid Of Me』(93年)にアルビニを迎えたPJ・ハーヴェイらが『Surfer Rosa』をオールタイム・ベストに挙げていることからも明らかだが、ピクシーズのユニークさは、音楽面以外にも及んでいたんじゃないか。例えば、その後のオルタナ・シーンで、男女混成、多人種のバンドが増えたのは、ピクシーズという存在がいたからのようにも思える。

 もちろん本人たちにそんな意識はなかっただろうが、さまざまな影響や示唆を与えながら、何かに駆り立てられるようにピクシーズは毎年フル・アルバム——それも毎回、新たな要素を吸収した濃密な作品をリリースするという信じられないスピードで活動を続け、『Doolittle』(89年4月)が全英8位、『Bossanova』(90年8月)が全英3位としっかり結果も残していった。

 しかし、同時に緊張が張り詰めた活動はメンバー間に軋轢も生む。なかでも自分の曲が使われないとブラックのワンマンなやり方に不満を募らせていたキムがそれならとスローイング・ミュージズのタニヤ・ドネリーらとブリーダーズを始めたことで、ブラックとキムの関係は悪化。しかも、ブリーダーズの初作『Pod』(90年)が全英22位のスマッシュ・ヒットを記録したことにブラックが良く言えばライヴァル心、悪く言えば嫉妬心を燃やしたことで、両者の対立は決定的になった。

 そんな火花の散る状況下で『Trompe Le Monde』を完成させ、91年9月にリリース。そして、92年2月~4月にかけてはU2のツアー・サポートに抜擢され、全米各地をツアー。さらなるステップアップのチャンスを掴んだものの、93年1月、ブラックが解散を宣言する。ニルヴァーナ、スマッシング・パンプキンズ、レディオヘッドら、ピクシーズの影響を認めるチルドレンたちが表舞台に立つのと入れ替わるようにピクシーズがあっけない結末を迎えたのは、皮肉と言うか、何と言うか。やっと時代が彼らに追いついた。これからだと誰もが期待していただけに解散が与えたショックもまた大きかった。

 解散後、ブラックはフランク・ブラック、及びフランク・ブラック&ザ・カソリックス名義で精力的にリリースを重ね、キムはブリーダーズの活動に専念。“Cannonball”のヒットを生んだ2作目『Last Splash』(93年)は全英5位/全米33位という『Pod』以上の成功を収めた。ジョーイとデヴィッドはさまざまなセッションに参加。ジョーイは妻とマルティニスというバンドを組んだり、TV番組の音楽を手掛けたりするなど、多才さもアピールした。

 

バンド活動を楽しむバンド

 しかし、ゲット・アップ・キッズやウィーザーらが参加したトリビュート盤『Where Is My Mind?』(99年)が作られるなど、オルタナ・ブームの定着と共に、その先駆者として改めて評価されたピクシーズの再結成を求める声は高まるばかりとなった。そして、解散から11年。2004年についにオリジナル・ラインナップで再結成が実現すると、世界中のファンが伝説のバンドの帰還を歓迎。その年の7月には〈フジロック〉出演という形で初来日が実現した。

 その後は世界中からオファーが相次いだのだろう。バンドは世界各地をツアーしながら、しっかりと手応えを取り戻すように活動を続けていった。2013年にはキムがソロ活動に専念するため、バンドを脱退。マフズのキム・シャタックを迎えてツアーを続けるが、2014年からはア・パーフェクト・サークルなどで知られるパズ・レンチャンティンが参加。女性ベーシストにこだわるのは、ピクシーズ・サウンドには女性ヴォーカルが不可欠だからだ。

 再結成から10年、満を持して2014年にリリースした初のアルバム『Indie Cindy』は3枚のEPをコンパイルしたものだったが、多くの人が新作を待っていたのだろう。同作は全米23位/全英6位のヒット作になった。その後の彼らは、トム・ダルゲティをプロデューサーに迎えた『Head Carrier』(2016年)、同布陣でこのたびリリースされたばかりのニュー・アルバム『Beneath The Eyrie』とマイペースながら順調にリリースを重ねている。

PIXIES Beneath The Eyrie Pixiesmusic/BMG/ワーナー(2019)

 再結成後のアルバムを聴き、ピクシーズらしさは変わらないと思いながら、ちょっと物足りないと感じているリスナーも少なくないようだ。しかし、ヴォーカリストとしても大きな役割を担うパズとバンドの相性がいいということに加え、解散前の反省なのか、年齢を重ねて成熟したのか、現在の彼らはバンドを長続きさせようと意識しているように思える。ノイズ・ポップというジャンルが定着し、時代や世界と取っ組み合う必要がなくなったいま、もしかしたら彼らは心底、バンドを楽しんでいるのかもしれない。 *山口智男

 

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