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ハスカー・ドゥとピーター・ポール&マリー

 そんなピクシーズの結成は、ロックがもっとも華やかだった80年代が折り返しに入った86年のこと。そもそもの始まりは、ブラック・フランシス(ギター/ヴォーカル)とフィリピン系のジョーイ・サンティアゴ(ギター)がマサチューセッツ大学アマースト校の学生寮で出会ったことだった。共にロック好きだったことで意気投合した2人は、ジャム・セッションを楽しんだり、ブラック・フラッグのライヴを観に行ったりしているうちにバンド結成の夢を膨らませると、大学をドロップアウト。ボストンに移り住んで、倉庫で働きながらバンド結成に向け、曲を作りはじめた。

 そして、86年1月。曲を作り貯め、バンドを始める準備を整えた2人は早速、地元紙にメンバー募集の広告を載せる——〈求む! ハスカー・ドゥとピーター・ポール&マリーが大好きなベーシスト〉。

 ちなみにハスカー・ドゥは、79年に結成されたミネアポリスのハードコア・パンク・バンド。その頃にはパンクのエッジを残しながら、メロディアスなギター・ロックを奏でるようになっていた。一方のピーター・ポール&マリーは、60年代から活躍する男女フォーク・トリオ。ボブ・ディラン“Blowin' In The Wind”のカヴァーや“Puff”のヒットが有名だ。

 このセンス、わかるか⁉ そんな気持ちも少なからずあったのかもしれない。しかし、理解されるにはハイレヴェルすぎたのか、ジョークだと思われたのか、広告を見て連絡してきたのは、たった1人。しかも、もともとはギタリストで、ベースは弾いたことがないという。それがキム・ディールだった。

 しかし、2人は彼女を大歓迎。続いてキムの双子姉妹にあたるケリーがドラマーに決まりかけるものの、そもそもドラマーではない彼女が自信がないと辞退したため、キムの夫の友人で、カナダのプログレ・ハード・ロック・バンド、ラッシュのファンだというデヴィッド・ラヴァリングを迎える。結果としてテクニシャンのドラマーがバンドの屋台骨を支えることになったが、プレイヤーとしての経験に頓着しないメンバー選びからは、ピクシーズが演奏の上手さを一番に考えていなかったことが窺える。

 早速ライヴ活動をスタートさせた4人だが、メンバー募集で示されていた通り、方向性がすでに決まっていたバンドが注目されるまでに、それほど時間はかからなかった。同じボストンのスローイング・ミュージズと共演した際、彼女たちのマネージャーとプロデューサーに薦められ、87年3月にはフランクの父親に1,000ドル出してもらって17曲のデモ音源をレコーディング。このデモがきっかけとなって4ADと契約を結ぶと、デモから8曲を収録したミニ・アルバム『Come On Pilgrim』で同年9月にデビュー。ボストン界隈でライヴを始めたばかりの新人バンドと4ADが契約したのは、すでにスローイング・ミュージズをデビューさせ、アメリカのバンドに興味を持っていたことももちろんだが、やはりピクシーズのサウンドが、それまで聴いたことがないものだったことが大きかったのだろう。

 ノイジーでポップということなら、ピクシーズも参考にしたに違いないジーザス&メリー・チェインが85年に『Psycho Candy』で衝撃のデビューを飾っているが、4ADのオーナーであるアイヴォ・ワッツ・ラッセルが当初〈ロックンロールすぎる〉と契約に二の足を踏んだことからもわかるように、ピクシーズはいかにもアンダーグラウンド・バンドらしいシュールリアリズムも持ちながら、同時にニヒルになりがちなアンダーグラウンド・シーンに風穴を空けるのに必要な過剰なエモーションとロック本来の熱量も持っていた。それが、80年代ロックの華やかさを虚飾だと考え、もっとガツンとくる、よりリアルな表現を求めつつあったリスナーの欲求に見事に応えたのだろう。『Come On Pilgrim』はいきなりUKインディー・チャートの5位に食い込み、ピクシーズの存在をアピールした。