©2013 Homegreen Films & JBA Production

ツァイ・ミンリャン監督、最後の劇場公開作は、無力さを潜勢力と読み替える革命的映画である!

 大都市の片隅、あるいは誰も関心を向けることのない隙間のような空間でホームレスめいた生活を送る父親と幼い子どもたちを軸に物語らしきものが展開され、SFじみた広大さや清潔さを誇るショッピングセンターに勤める女性が、絶望から死を決意したらしき父親から子どもたちを救い出す……といった筋立てが読み取れる。

 本作は、現代資本主義社会に巣食う病理や矛盾、貧者の絶望を描く映画、さらには、そうした描写を通して資本主義を批判する映画なのか。答えはイエスにしてノーである。なぜイエスかといえば、映画作家の分身であるリー・カンション演じる父親が明らかに現代版プロレタリアートだからだ。プロレタリアートとは、単なる貧者ではなく、あらゆる可能性を剥奪され、ただただ潜勢力=ポテンシャリティのみが残された存在である。あらゆる可能性を使い果たしたがゆえに、プロレタリアートは純粋な〈潜勢力〉(能力)を孕み、マルクスはそんな彼らに革命の〈主体〉を託したのだった……。

©2013 Homegreen Films & JBA Production

 不動産の広告看板を手に、多数の自動車やオートバイが無表情に行き交う大通り脇に立つことが父親の仕事である。小雨混じりの強風が吹き荒ぶなか、黄色いレインコートを羽織り、無言のまま立ち尽くす彼の姿が何度か画面に現れ、その最後のものが、クロースアップで彼の顔を捉えるショットである。エンジン音や風の音がノイズめいた音響を画面に充満させる一方、彼は南宗の武将、岳飛による愛国的な内容の詩詞「満江紅」を諳んじはじめる。それが僕らの耳に革命歌として響き、掲げられた看板が過激な政治プラカードに変貌を遂げるかのようで感動を誘うのは確かだが、あくまでも彼は政治的アクティヴィストではなく、本作をストレートな政治映画と位置づけるわけにいかないがゆえに、先の問いにノーとも答えねばならない。本作の主人公は、政治的かつ革命的な言動や思想によってではなく、剥き出しの潜勢力、つまりは生産的な労働から遠ざかり、ただ食べたり眠るだけとも映る存在と化したがゆえにプロレタリアートであり、本作は、半端に社会派を気取る映画よりもはるかに政治的で革命的な映画であるともいえる。

©2013 Homegreen Films & JBA Production

 昨年のヴェネツィア国際映画祭での発表によれば、本作がツァイ・ミンリャン最後の劇場公開作になる。そもそも本作からして、商業用娯楽映画の要素がほぼ削り落とされているが、そのことをもって映画への絶望が表明されるわけではないだろう。むしろ今日の多くの映画が映画ならざるものに零落しつつあり、彼のほうこそ、映画の純粋形態に迫ろうとしているのではないか。労働者階級の団結を呼びかけるまやかしの広告としてではなく、あらゆる可能性の幻影を削ぎ落とした末に、純粋な潜勢力=ポテンシャリティとして出現する映画……。それこそ、ツァイ・ミンリャンによって志向される、〈プロレタリアートの映画/革命的映画〉である。

 


MOVIE INFORMATION
映画「郊遊〈ピクニック〉」
監督:蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)
音響:杜篤之(ドウ・ドゥージ)郭禮杞(クォ・リーチー) 
絵画:高俊宏(ガオ・ジュンホン)
出演:李康生(リー・カンション)/楊貴媚(ヤン・クイメイ)/陸奔静(ルー・イーチン)/陳湘琪 (チェン・シャンチー)/他
配給:ムヴィオラ
(2013年 台湾、フランス)
2014年9月6日(土)、シアター・イメージフォーラム、シネ・リーブル梅田ほか全国順次公開!
http://www.moviola.jp/jiaoyou/