撮影協力:山口 学

 

熊野三山のひとつに数えられる熊野那智大社や一段の落差が日本一だという那智の滝が有名で、温泉が湧き出るために旅館も多くあることなどから、紀伊半島でも有数の観光地として知られる和歌山県那智勝浦町。生鮮マグロの水揚げ量が日本屈指の漁港、ひょっとしたら街全体よりも大きいんじゃないか?と思えてならないほど巨大な要塞、ホテル浦島も勝浦の顔だ。この辺りは、時間的な距離の遠近を見た場合、東京からもっとも時間のかかるところと言われているだけあって、訪れるたびにハイレヴェルなはるばる感というか、果てにやって来た感が堪能できる。

 

 

ここKatsuUraで、約60年前に生を受けた濱口祐自。マグロはえなわ漁を生業とする家系に生まれたがそちら方面の仕事に就かず、自由人として生きる道を選択。メジャー・デビューを果たしたいまもなおこの町を拠点とし、しお風と戯れながら音楽に埋もれる暮らしを送っている。

町の雰囲気はというと、いたってピースフル。沖に出ればマッコウクジラやイルカが回遊しているのを見ることができるし、通りを歩けば、隣町の太地町へ乗り込んでいく前のシーシェパードの一団が観光客に交じって談笑しながら勝ブラしているのをウォッチングできたりもする。それから、勝浦にはユウジさんのようにイイ顔した男が多い。そんなことを先日、どてらを来た勝浦産エリック・クラプトンと出会ったときに強くそう思った。

「勝浦のクラプトンが来たで」。ボソッとユウジさんが呟いた。彼の視線の先には、僕らが乗った車の行く手を遮るように道のど真ん中に立つ男がいた。まるでイギリス人のようなノーブルな顔立ちと、どてらという組み合わせが、なかなかの違和感だ。そのクラプトン似のおっちゃん、車のなかをのぞき込み、「お前、有名になったらしいのう」と吐き捨ててどこかへ去っていった。この町に吹くしお風はブルースな顔を育むのか。座席横の日本コロムビア・服部さんはこれぞ勝浦!といたく感動している。聞くところによると、あのどてらを羽織ったスロウハンド(クラプトンの愛称です)、昔みずから起こした犯罪で当時の日本新記録を樹立したというスケールの大きな男だった(中身は書けない)。

 

 

前は海、後ろは山。という紀州ならではの地形をした勝浦だが、潮の香りと森の匂いが混じり合ったような濱口祐自の独特なギターの音色がこの地での生活によって育まれたものであることは間違いなかろう。黒潮が流れる熊野灘、そして那智山の一角を占める妙法山が、濱口祐自の音楽にどれだけ近似しているのかは、実際その景色を目にした人でないと分からないかもしれない。

「歳を取るごとに紀伊半島が魅力的に思えるようになってきたわ」とユウジさん。

「温暖な気候も含めてな。東京に通うようになって、いっそう好きになった気がする。ワイドビュー南紀で紀伊長島過ぎたあたりから海が見えてくるやろ? 帰ってきたなぁって気するもんのう。でも最近はずっとお気に入りの場所が次々開発されてって、腹立ってしょうがない。自然のままがいちばんええってことを連中はわからんみたいやの。触るな財産を! で、俺の好きな場所ばっかりが無くなっていくもんで、最近はできるだけ好きに思わんようにしとるわ」

そんな彼は、自分の音楽が熊野的だなんて思ったことなど一度たりともないと強く主張する。

「まったく意味がわからん。熊野の偉人とかひとりも知らんしのう。そもそも勝浦人って言われるのも違和感あるんや。俺はずっと脇の谷人やと思っとるし」。

 

 

脇の谷とは、この異能のギタリストが生まれ育ったところ。熊野のディープ・サウス、勝浦のなかでもディープなスポットと言える小さな入り江の町だ。ちなみに彼の住まいは、漁業協同組合から借りている漁具置き場の倉庫で、二階に住居スペース、一階は大量のギターでごった返した状態となっている。おもしろいのは、濱口家を筆頭に、ブルーに塗られた小屋などその一帯は異国情緒が漂う建物が並んでおり、いかにもブルースが似合いそうな雰囲気が立ち込めていること。この不思議な景色を利用しない手はない、と、われわれは“Dr.O's Rag”のプロモクリップをここで撮影することにしたのだ。いかなるときにも画になる男、濱口祐自がよりいっそう魅力的に映える場所、それが脇の谷。アメリカ南部のデルタ平野などよりもずっと彼をカッコ良く惹き立てるのだということを、あの映像を観た人ならわかってもらえると思う。

一日中、聞こえてくるのは小鳥のさえずりだけ(よ~く耳を澄ませば、ユウジさんがギターを練習する音が聴こえるかもしれない)。入り江のなかではユウジさん所有の手漕ぎ船がゆらり波に揺られている。朝に来ても昼に来ても夕暮れに来ても夜に来てもほとんど印象が変わらないこんな時間がゆっくり流れるところで、潮の満ち引きや太陽と月の入れ替わりを眺めながら、ひたすらギターを弾き続けるという潜伏生活を長く送っていた彼。

「みんな潜伏とか言うけど、普通に生活しとっただけやけどのう」。そう笑うユウジさんだが、そんな暮らしによって彼のブルースマン的風情が醸成されたことは事実だ。こんな時計の針がゆっくりと進む脇の谷で、ユウジさんは人生を終えたいと願っている。

 

 

ディープなスポットと言えば、勝浦の伝説的スポット〈竹林パワー〉のことを忘れちゃいけない。1985年6月18日にオープンし、1997年9月25日に閉店したこの音楽バー。マスターは濱口祐自。彼がお客さんに演奏を聴かせてお金をもらうようになったのはここが出発点なのである。ちなみにオープン日である6月18日は、奇しくもメジャー・デビュー・アルバム『濱口祐自 フロム・カツウラ』のリリース日と同じ日であった。その頃の彼の生活はどんなだったかというと……。

「夕方になると客を自分の船で沖へ連れていってもてなすんや。そして目の前に海をのぞむ温泉にのんびり浸かって、夜はお店でうまい酒とええ音楽を聴きながら宴やろ。こんな楽しいことばっかり続けとったら、絶対にバチが当たると思とったよ」。

旅行誌に掲載されたことなどもあって、お店には地元の常連だけでなく、京都や神戸からも客がやってきたそうだ(外国人も少なくなかったという)。僕のほうでも、それこそ全国あちこちで竹林パワーに通っていたという人に出くわしている(某有名バンドのギタリストが通っていたという話も聞いた)。で、彼らから竹林パワーの思い出を聞かされるたび、悔しさが募って仕方がない。当時、ユウジさんはどんな演奏を聴かせていたのだろう? 若かったからもっと音に鋭さがあったのだろうか? 複雑なクラシック曲をいとも簡単に弾きこなしていたかもしれない。とにかく、いろんな人の話を総合してわかったのは、伝説的な音楽の竹林は、音楽好きたちにとってパワースポットであったということだ。

店のインテリアにはすべて、彼がみずから伐採してきた竹が用いられていた(アルバム『竹林パワーの夢』のジャケットで確認できる)。壁には海のスケッチ画が飾られていたが、それはすべてユウジさんの父、武さんが描いたものだった。漁師でありながら我流で絵を描き続けた彼は、イヤなものはイヤ、という生き方を貫くユウジさんの最大の支持者だったと思われる。例えばこんなエピソードがある。ユウジさんが30代の頃、高校の臨時教師をやると決めたとき、武さんは本気で怒ったというのだ。お前はヨーロッパへ行くんじゃなかったのか? やりたいことがあるんじゃないのか? そう問い詰められてユウジさんの気持ちがだいぶひるんだであろうことは容易に想像がつく。「自由にやれ」が口癖だったという武さんはきっと、祐自という名前に自由というメッセージを隠していたに違いない。

いろいろ訳あって竹林パワーは97年に閉店することとなり、メモリアルの意味で処女作『竹林パワーDream』(『竹林パワーの夢』の元になったアルバム)をレコーディングすることになる。この名刺代わりのアルバムを手に、彼は本格的な音楽活動へと入っていくのだ。なお、竹林パワーは99年に民家を改装して再オープンするが、父を含めて周りの人間が立て続けに亡くなるということが続き(武さんは2000年に死去)、次は俺の番かもしれん、と思って店じまいする決心をしたそうだ。

今回の勝浦訪問では、船を出してくれるなど、弟の起年さんがいろいろと面倒をみてくれた。沖は風がかなり強くて震え上がったけど、陽射しは眩しく、きらめく波光が目に痛かった。船には起年さんの孫、カズマくんも乗船。ユウジさんとはつねに逆方向に顔を向けて無言をとおした彼だが、付かず離れずの距離を保ったまま、ずっとそばにくっついていたのが微笑ましかった。陸に戻ってから、ユウジさんと起年さんがふたりっきりの演奏を聴かせてくれる。冬の陽だまりに流れる緩やかなカントリー・ブルース。時計の針がゆっくり進む空間がここにもあった。このふたり、いっしょに音楽活動を行っているわけではないが、地元でのライヴでは頻繁に共演しており、ユウジさんの自主制作シングル“しお風の吹くまち”では起年さんがヴォーカルをとっていたりもする。

それにしても、この兄弟は本当に仲がいい。ユウジさんがピシッとしないからと起年さんがきつく叱っているのを目にすることもしばしば。でも、ユウジさんは泥酔したとき、しょっちゅう起年さんの自慢話をしている。話を軽く流そうもんなら、何にもわかってない!と叱られてしまう。思い出してみると、取材やライヴなどで東京滞在が長くなってくると、起年さんの話題が頻繁に出るようになってきていたっけ。

この日、夜は宴会が催されることになった。ユウジさんの後見人であり、学生時代の一年先輩である荒尾さんのご夫婦など地元の友だちが、港に建つプレハブに集合。荒尾さんが持ってきてくれたクジラの刺身がほっぺたの落ちるような旨さでホント参った。

飲みの最中、近ごろユウジさんの長い指がセクシーだという声があちこちで上がっているという話題に。それを聞いた女性陣が腹を抱えて大笑い。それに腹を立てたユウジさんがギターを手にし、彼女たちの目の前でしつこくチョーキングを連発、官能的な音色を浴びせかけている。これはギター・セクハラや、と誰かが突っ込む。明るい笑い声とキュインキュインという音色が延々と続いている。間違いない、ユウジさんが勝浦を離れられないのは彼らがいるからだ。友だちと楽しい酒を呑むことこそ人生最高の喜び。そこに最高の音楽があればもう何もいらない。いつもの彼の口癖だ。

場が落ちついてきた頃、さっき買い出しに行ったお店での様子についてユウジさんに尋ねてみた。

――成人式で〈地元ではまだあまり知られていませんが〉なんて言われとったけど、スーパーでは〈こないだのテレビ観たよ〉って声かけてくる人も多かったね。勝浦で有名になりつつあるって実感が湧いたりしてる?

「あんまりないのう。そういう人らってライヴに来やへんもんね。ずっと来てくれとる人はああいう感じにはならへん。有名になって知られたからいうて、マニアが増えるわけじゃないからよ。状況は前といっしょやと思うね」

――ま、有名になりたいために番組(テレビ朝日「題名のない音楽会」)に出たわけじゃないし。

「人から大事に扱ってもらいたいよって、テレビ出たわけじゃないもんねぇ。逆に無下に扱われるぐらいのほうが相手のこともよう見えてくるし、状況がハッキリ見えてわかりやすいんけどね。アーティストやるんやったら、無名のままでおったほうがええと思う。これまでたいがいバカにされたこともあったからのう…。テレビで有名になったら誰だって頭さげてくれるようになるやないか、って言う人もおるけど、頭下げてもらいたいために芸術しよるわけじゃないもんのう。そやで! そりゃお金(ギャラ)の条件がもっと上がっていけば有難いけど、相手がリスペクトしてくれとるのが感じられる額やったら充分やろ。職業で言うんやったら、旗振りもギター弾きも同じやもんね。1回旗振りやっていま幾ら貰えるんかわからんけど、それで1日生きていけるんやったら上等なんちゃあうん? 人間どんなにお金あっても、飯20杯も食えんもんのう」

――本当に金持ちになりたいって欲がないよね。もしジャブジャブお金が入ってきたらどうする?

「ま、飲みに行くか、ってなるだけやろけどのう。でも、キャバレー行って、ドンペリ開けたりするのとかはまったく興味ないのう。あと、時計とか車も興味ないんや」

――物心ついた頃から、そういうのに憧れたことは一度も?

「ないね。いままでいちばん高価な買い物が、リンダマンザー・ギターやったかな。120万したかのう。車はこれまでだいたい15万前後やろ? 今回買うた中古車は車検入れて20万ぐらいやったけど、いままでで最高額。乗ってて気分が最高にええわ。そやで、こないだバンバン叩かれたのがほんま気分悪うての(連載第1回目参照)。なんであのおっさん、あんなに血相変えて怒ってきたんかいまだに訳わからん! こっちやで、って誘導してくれるわけでもなく、人の大事な車を邪険に扱いやがって。正月の3日からよう。ヤクザのベンツやったら叩くんか!?って話や。そんなんやったら刺されとるで! ほんまあったまにくるわ!!」

 

 

――まぁまぁまぁ。ところで、成人式の二十歳の子らを見てどうやった? あの頃に戻りたい、という気持ちになったりせーへん?

「ないね」

――昔のことってやっぱり後悔することのほうが多い?

「そんなの山ほどある」

――ユウジさんの後悔話でいちばん印象に残っとるのがレントゲン話なんやけど(高校の臨時教師をやるにあたって病院で健康診断を受けることに。その際、言われるがままにレントゲン検査を受けたのだが…この出来事が長く彼を苦しめ続けることに。彼はいまもなお、〈放射能を浴びて被爆してしまった! 俺の身体は汚れてしまった!〉という後悔の念にさいなまれている)。こないだも思い出して眠れなくなったって言うてましたよね。

「あれでハッキリわかった。自分はイヤやと思うことをしたらアカン人間やとわかったよ。悔やみ過ぎて、気が狂うんちゃあうか?って思ったもん。あぁ、あかん、また思い出してきたわ…」

今夜もいつもと何も変わらないユウジさんがいる。そして一行はいつもと変わらず、町中のスナックへと移動することに。ところで、最近勝浦の外国人ホステスの間で「ええのう」というユウジさんの口癖が流行っているとか聞いたけど本当なんだろうか? 早急に調べる必要がある。

※連載〈その男、濱口祐自〉の記事一覧はこちら

 

PROFILE:濱口祐自


今年12月に還暦を迎える、和歌山は那智勝浦出身のブルースマン。その〈異能のギタリスト〉ぶりを久保田麻琴に発見され、彼のプロデュースによるアルバム『濱口祐自 フロム・カツウラ』で2014年6月にメジャー・デビュー。同年10月に開催されたピーター・バラカンのオーガナイズによるフェス〈LIVE MAGIC!〉や、11月に放送された「題名のない音楽会」への出演も大きな反響を呼んだ。最新情報はオフィシャルサイトにてご確認を。

【参考動画】〈Peter Barakan's LIVE MAGIC! 2014〉での濱口祐自のパフォーマンス