ジャパン・ジャズのストールン・モーメンツ復活!!

 菊地雅章増尾好秋峰厚介に遅れ、決意したアメリカ行きを直後にひかえる鈴木良雄のデビュー・アルバム制作をひとつの置き土産と考えていた。そしてこれを仕上げるとソニーを退社し、伊藤潔はフリーの身となる。1973年5月のことだ。ビクターのソフト部門フィリップス・レコード事業部が独立し、新会社を創設するのが決まったのはその直後のこと。大学卒業後フィリップスでバイトをしていた伊藤八十八はそのままその新会社・日本フォノグラムの社員となるが、社内にジャズ専門レーベル設立の気運をもたらしたのは何といってもマイルス・デイヴィスの来日だった。滞在時を狙って主要構成員デイヴ・リーブマンをスタジオ入りさせ、同じ来日メンバーの伴奏でしかも御大マイルスの直接的アドヴァイスを得て、アビー・リンカーンのレコーディングも敢行。これを機に一気にフォノグラム陣営の気概は高まり、アーティストの洋邦を問わない、日本スタッフの仕切りによる、世界をマーケットとした日本で初のジャズ専門レーベルの設立へと傾いていった。

 当時といえば先に挙げた他、日野皓正大野俊三川崎燎村上寛たち先鋭的ミュージシャンが一斉にアメリカを目指し日本を脱出してしていた。その多くはすでに欧米での活動に身を浸していたし、早々本場アーティストとの交流も始めていた。ならば指針を日本人に絞らず世界を視野に録音/市場開拓していくべきではないか……この会合がフォノグラム内で持たれたのが1974年3月。伊藤潔・伊藤八十八の2人がタッグを組み、名物プロデュース・チームを誕生させたのはこの時である。また意中にある奏者の多くがあいミュージックのマネージメント下にあり、事務所社長の鯉沼利成も創設メンバーのひとりに加わる(のちのイーストワークス エンタティンメントCEO・守崎幸夫も、直前にソニーを退社。あいミュージックに移籍したことでマネージメント/プロデューサーとして名を連ねた)。さらに米・西海岸での録音を想定し、現地プロデュースを鯉沼の旧知オリヴァー・ネルソンに依頼した。それら契約をすべて無事に済ませ、ついに「イースト・ウィンド」レーベル始動となったのが同年7月だった。東国から世界へ向けてジャズの新風を送り込もうという、まさにスタッフの宿願をこの名に託したわけだ。

【参考音源】アン・バートンの76年作『バイ・マイセルフ・アローン』収録曲“Love Is A Necessary Evil”

 

 そしてその第一弾が、1年2ヵ月ぶりに帰国し全国ツアーをしていた菊地雅章のオールスター・グループによる『イースト・ウィンド』。レーベル始動と同月の録音でどちらがこの名の先手かと問われれば、菊地のオリジナル曲《イースト・ウィンド》は元来《フォーリン・イン・ザ・スカイ》というタイトルで、レーベル立ち上げを祝っての変名だったことが見えてくる。ただ菊地はこの名がお気に入りだったらしく、後年日野との双頭グループを東風〈こち〉と命名し問題作『ウィッシズ』をイースト・ウィンド・レーベル(以下、EW)に残すことになる。じつは契約のすべてが完了する以前から新レーベル用レコーディングは始まっていて、ダラー・ブランドの郵便貯金ホール公演を録音した『アフリカン・ブリーズ』、来日中の人気歌手アン・バートンをとらえた『バイ・マイセルフ・アローン』、若手注目株だった益田幹夫の『トレイス』、渡辺貞夫グループに大抜擢された本田竹曠の『サラーム・サラーム』と、話題の作品群はすでに仕込まれていた。この疾風怒涛の早業を思えば、EWスタッフの当初からの鼻息の荒さが生々しく伝わってくるというものである。

【参考音源】東風の76年作『ウィッシズ』収録曲“La Mocha Esta Dormindo”

 

 力が入ったのはプロデュースだけでなく、演奏クォリティがまずそれと相乗するように目覚ましい飛躍を遂げてみせた。その最初の成果が富樫雅彦が渡辺貞夫を迎え録音したオリジナル曲集『ソング・フォー・マイセルフ』で、同盤はこの年の日本ジャズ賞に輝く。始動当初より新しいジャズの行き方を開拓するレーベルと一躍その名は世に知れ、それに応えて録音エンジニアも手腕を奮わせた。加えて有名カメラマンとトップ・デザイナーの起用で、それまでのジャズ・イメージと異なる革新的ジャケット・アートも楽しませた。ならばアルバム売上げにこれら裁量が反映したかと言えば、出費多くも身入りはそこそこ。そんな中で翌75年の年頭に、当初よりの目論見であった日本のレコード会社では初となるアメリカ録音が敢行される。ロサンジェルスでのプロデュースはオリヴァー・ネルソンが、ニューヨークでは菊地雅章がそれを担当し、計5枚のアルバムを制作した。この時のネルソン自身のリーダー作『ストールン・モーメンツ』は、同年10月の突然の死によって最後のプロデュース/リーダー作となってしまう。

 レーベルの実益部分に光明が射したのは、そんな第1回アメリカ行きから帰国して直後のことだった。前作が評判だった富樫がオーケストラを組み催したコンサートは画期的で、この音源に追加録音を行ない全体を編集し直した『スピリチュアル・ネイチャー』は、この年のジャズ・ディスク大賞の金賞/日本ジャズ賞/最優秀録音賞の三冠を達成する。ジャズ界には画期的出来事で、同時に画期的売上げがもたらされた。以後のEW作品群もその恩恵が付され、レーベル運営は絶好調期へと突入していくことになる。同年7月には第2回アメリカ録音があり、計10作品を9日間で仕上げ、うちシーラ・ジョーダンの『コンファメーション』とアンドリュー・ヒルの『オマージュ』がともに同年ジャズ・ディスク大賞の制作企画賞に輝いた。また新たなる挑戦として、最新録音法=ダイレクト・カッティングをいち早く採用。ロスのスタジオにジョー・サンプルレイ・ブラウンシェリー・マンを呼び寄せ、2テイクずつを原盤に直接カッティングさせていった。その『ザ・スリー』は、テイク1が売り切れたためテイク2で再発するとそれも完売するといった好評ぶり。EWのオーディオ・ファイル指向はそこでも拍車をかけた。以後シダー・ウォルトンL. A. フォアザ・グレイト・ジャズ・トリオ(以下、GJT)など5タイトルのダイレクト・カッティング録音が行なわれることになる。

 76年5月には第3回アメリカ行きがあり、これはスタッフにとってハードな日々となった。海外初のライヴ録音と海外初のダイレクト・カッティングを体験、20日間で12作品分の録音が敢行される。生きる伝説と化したレニー・トリスターノとも会い、過去の音源の発売権も交渉・獲得してきた(『メエルストルムの渦』はジャズ・ディスク大賞の編集企画賞を獲得)。渡辺貞夫の録音でGJTをスタジオに招き入れたことは、中でも一番の収穫だった。『アイム・オールド・ファッション』が渡辺にとっての代表作となっただけでなく、ハンク・ジョーンズロン・カータートニー・ウィリアムスという新旧構成の妙にスポットが当たり、同トリオの世界的人気のきっかけを作るのである。結局GJT関連作品を、EWはその運営を閉鎖させる1979年頃までに9枚録音し、そのすべてでベストセラー入りさせる快挙をやってみせるのだ。この帰国直後よりアメリカとヨーロッパのレコード会社との交渉が始まり、数年後には念願のEW世界発売を実現させることにもなった。

 そんなEWのカタログ全72タイトルが、シリーズとしては13年ぶりに限定再発される。ジャズが熱かったあの時代の音を聴き直していただきたいのと同時、昨年11月19日に天寿をまっとうした伊藤八十八の、偉大な仕事にぜひこれを機に触れていただきたい。

 ひとつ、心残りがある。1975年に渡辺貞夫はモントルー・ジャズ祭出演を兼ねて欧州中を演奏旅行していたが、その途中メンバーの本田竹曠だけを伴いニューヨークへ飛んでいる。これは当地で待ち受けるEWスタッフと、菊地、福村博、増尾好秋、鈴木良雄、村上寛と合流し、録音セッションを持つためだった。その時の1曲が《アンタイトルド》として発表されているが、その他の同日録音曲が未だ公表されていないのだ。立派な演奏がされたはずだとの証言もあるし、何よりこの贅沢なメンバーでのニューヨークにおけるスタジオ録音は他にはない。ぜひともその発掘の願いがかなえられんことを祈って……。