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〈後ろめたいことはしたくない〉っていう気持ち。これまでとは違う形で納得できるレーベルができるんじゃないかという強い予感があった(与田)

――その段階でレーベルを始めるモチベーションが満タンになったんでしょうね。そこから現実の動きとして〈レーベルをやろうか〉というステップに移行するきっかけは何だったんですか?

安孫子「そのツアーの直後に、与田さん、福井さんといった方たちと共通の友人の計らいで久々に会う機会があったんです」

与田「彼が群馬に行ってしまって、僕らもそれぞれ連絡を取っていなかったので、〈東京に来る機会があるならみんなで集まろうよ〉って。来れないメンバーもいたけど、とりあえずチームで飲み会をやったんです。その場でアビちゃんから〈いまの若いバンドのツアーに付いて行ったら、こんなことが起きてるんだ〉って話を聞いたときに、たぶん僕も福井くんもバラバラで〈これってレーベルやったらいいんじゃない?〉って感じてたと思うんだけど、とりあえず〈じゃあ3人で会って話をしようよ〉という流れになって」

――なるほど。

与田「僕らは普通に仕事としてやるレーベルは経験者だけど、そういう形ではなくて、もっと自由でフェアな姿勢でやりたいと思ったんです。それこそファクトリークリエイションじゃないけど、彼らがやっていたようなスタイルで、しかも仕事にしなくてもできるんじゃないかな?という気持ちがあった。〈後ろめたいことはしたくない〉っていう気持ち。インディーと言えど、現状ではメジャーが採用しているシステムとかなり近い部分があって、それは僕らが好きだったUKのインディー・レーベルの運営とは違う。もちろん日本的な慣習は理解できるものの、もう少し理想を追ってもいいんじゃないかという部分と、バンドに対するケアの部分でも違和感があった。そこへの贖罪ではないけど、アビちゃんの話を聞いたときにこれまでとは違う形で自分たちが納得できるものができるんじゃないかという強い予感があったんです」

安孫子「お金のことを詳しく話すのも野暮ですけど、バンドに対してもこれまでになくフェアな形でやれそうだったので〈これは素晴らしいな〉と」

与田ラフ・トレードでも初期はそうですが、レーベルがまずリスクを背負って、利益はお互いに折半するような、同じ目線でやっていたと思うんです。アラン・マッギー然りジェフ・トラヴィス然り。僕なんかはもともとそういったものに憧れてレーベルを作ったりしてたので、一度本当にそれをやってみたらいいんじゃないかな?と感じて。メジャー的なやり方がある意味では破綻した時代ではあると思うので、よりフェアで自由度の高いやり方を試せるチャンスではあると思うんです」

――かつてのインディー・レーベルが持っていたDIY精神ですね。

与田「そのかわり無茶はできないけど(笑)。売ることを目的にするんじゃなくて、音楽的なプロデュースや監督はアビちゃんに任せながら、彼が動きやすい状況を整えて、バンドと同じ目線でやっていくことを大事にしたいなと」

――与田さんに本題とはズレる質問なんですが、セカンド・サマー・オブ・ラヴをリアルタイムで体感した与田さんがVenus Peterやsugar plantを擁したWONDER RELEASEを90年代初頭にスタートさせて、確かにそこにはダンス・カルチャーが育んだDIYの哲学や美学を経由してきたカラーが感じられたけど、同時にUSのメロディック・ハードコア・パンク的なスタイルの先駆けだったBEYONDSも在籍していたじゃないですか。それはなぜだったんですか?

与田「WONDER RELEASEが始まったのは91年で、BEYONDSの最初のリリースが93年。あの頃のインディー・ダンスマッドチェスターのような音楽が本当にアツかったのって、実は91年いっぱいなんです。ある種のシーンが奇跡的に輝く時間って、いつの時代も1~2年程度でそんなに長くない。Venus Peterが作った92年の『SPACE DRIVER』は〈これで何かが変わるかな?〉って思うくらい良いアルバムだったけど、結果的にはメジャー・デビューしたにもかかわらずそこまで売れなくて。Venus PeterやSECRET GOLDFISHと同世代のインディー系バンドもどんどんデビューしていったけど、全然結果が出なかった。ストーン・ローゼズも沈黙期間に入って、盛り上がらなくなっていきましたよね」

Venus Peterの92年のシングル“Star Parade”

 

――つまり、日本では海外の失速が始まった後に仕掛けてしまったから、セールス的にも波に乗り切れなかったと。

与田「93年になってブリット・ポップが始まるあたりで、僕はそっち方面がダメで〈違うものになってしまった〉と感じていたんです。サマー・オブ・ラヴが終わったという感覚。ただ、あの頃BEYONDSの中村くん(中村修一:ベース)がVenus Peterを好きで、ライヴを観に来ていて」

安孫子「ほぉ~」

与田「中村くんはギター・ポップがすごく好きで、だからBADGE714みたいな音のバンドを組んでましたよね。そこで彼のバンドを観に行ったらすごく良かったんですが、一緒に演ってたNUKEY PIKESVOLUME DEALERSがお客さんは全然いないのにめちゃくちゃアツくて、〈これはリリースしなきゃダメでしょ〉ってことでBEYONDSを出したんです。当時だとTHE FLAMENCO A GO GOあたりも同じ時期だったと思うけど、ガレージっぽい音も含めて〈ライヴハウスでバンドを見つけよう〉と思ってやり直した。そしたらNUKEY PIKESは翌年に解散しちゃうんですけどね(笑)」

NUKEY PIKESのライヴ動画

 

――その頃に与田さんが見たBEYONDSやNUKEY PIKES周辺の状況と、いまKiliKiliVillaがフォーカスしているようなパンクのシーンを比較したときに、どういった相違点がありますか?

与田「90年代のほうがよりおおらかだったような気がします。当時のBEYONDSのメンバーは23~24歳くらいだったけど、NOT WONKにしろCAR10にしろ比較するとすごくしっかりしていて、〈自分はバンドをやるからほかのものは全部捨てる!〉みたいな感覚はないかもしれない。僕はそれは良いことだと思うんです。BEYONDSのときは、ちょうどヴォーカルの谷口くん(谷口健)が大学4年で就職活動の頃に2枚目のアルバム(『The World, Changed Into Sunday Afternoon』)を作っていたのかな、いまだったら〈仕事を決めて土日中心の活動にします〉って躊躇なく言えると思うけど、あの頃はそうでもなくて」

BEYONDSの90年代のライヴ映像

 

安孫子「僕もいまの子たちと話していて思うのは、おそらく現在30歳くらいの世代からそういった傾向が強いと勝手に踏んでいるのですが〈バンドをやるからフリーターをします〉って子はすごく少ないですね。みんな就職しながらで。ライヴ活動は基本土日中心。そこが昔との一番大きな変化かな」

与田「90年代前半って、UKもUSも新しいバンドがガンガン出てきてすごく盛り上がってた。でもそこまで細分化されてなかったから、ギター・ポップもパンクも並列に聴いてたし、ニルヴァーナプライマル・スクリームを同時に聴いてる人も多かったと思うんです。時代の空気はアツかったし、バンドのメンバーも〈俺たちは何者かになってやるんだ〉という熱意を持ってたけど、結果的にはいまのほうが時代の空気は冷めているものの、何者かになれる可能性は高いんじゃないかと思う。不思議な状況というか」

――それは興味深い考察ですね。

与田「もちろんBEYONDSは相当良かったので、USツアーにも行って〈これで何かが起こるだろう〉と思ったけど、そうそう簡単なことじゃなかった。むしろ、NOT WONKやCAR10やSEVENTEEN AGAiNが自分たちのペースで活動を続けながら、もっと先まで行ける可能性はあると思っていて」

――なるほど。

与田「90年代は成功事例としての渋谷系か、パンクだとHi-STANDARD周りのことしか語られない傾向がありますからね。失敗事例を糧にしようという気持ちは正直ありますよ」

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