©Casa Azul Films – Ecran Noir Productions – 2018

 ただ、「映画史」よりも、モンタージュ技術、チョイスされた素材(映画、音楽、書籍)の膨大な数とセンス、フィルムというよりセリー音楽のような、その繋がり、何よりかなりオーヴァー・ドライヴなエフェクト効果(有名な作品の有名なシーンが、ハレーションで何が写っているかわからないぐらいに真っ白になってる、とかetc)等の総合力において、「映画史」全巻を遥かに凌ぐ完成度と美しさを誇っています。

 この部門では、ゴダールは間違いなく世界一でしょう。ただ、公にこの競技に参加できるのはゴダールだけなので、ゴダールは、対戦相手のいない競技で1位を獲り、そしてカンヌでは、パルムドールより上の〈スペシャル・パルムドール〉という、英語とフランス語が混じっちゃってる事からも明らかな、かなり雑な権威(なんか、ラスボスを倒したら、〈実は奥に超ラスボスが居たんだもんねー〉みたいな、若干、児戯みたいなところのある幼稚な権威ですよね。ホール・オブ・フェイムみたいな名誉賞でもない訳ですから。以降、ゴダールが出品した年のパルムドールは、自動的に、実質準パルムドールになってしまう)の座にすわりました。

 なんという孤独でしょう。カリーナと並び、存命中のヌーヴェルヴァーグ・トリコロールの一角、ルグランも亡くなりました。

 世界中の人々、ホームレスぎりぎりの人までが、路上で寝ていて、警官に揺すられ、ポケットからスマホが落ちてきたりするこの時代に、ゴダールの果敢なスマホ使いは、アマチュアと同じテクノロジーを使って天才性を見せつける、ヌーヴェルヴァーグ時代から全く変わらないゴダーディズムです。しかし、繰り返しますが、「名画をエディットして、スマホの中で加工する」なんて、誰にだってできる、代わりに、誰にも発表できないわけですから、ゴダールの天才性は、どんどん孤独になって行きます。

 

「ECM使い放題」VS「ミュージカル・アドヴァイザー」

 そもそもゴダールは80年代に、マンフレッド・アイヒャーから、ECMの全ての音源の使用許諾を貰い、以後〈ECM映画〉と揶揄されるほど、ECM音楽ばかり使うようになりました。それより前は映画音楽の巨匠と仕事をしても、上手くいきませんでした。さらに前には、部屋にあったバッハやモーツァルトやベートーヴェンを適当に流していた(&フェードアウトできず、自分で針をあげてブツっと切っていた)筈ですから、初心に戻ったとも言えますが、この瞬間にゴダールは権利の侵害について、ズルズルになったと思います。

 ゴダールは60年代から、抜粋と引用は異なるものであり、芸術的・商業的利益を引き出すための〈抜粋〉に謝礼を払うのは当然だが、それとは別に批評的な〈引用の権利〉というものがあるのだと強弁し続け、「『映画史』をTV放映しても誰も何も言ってこなかった」とまで発言しました。その後、権利の侵害で告訴され、敗訴していますが、これは挿話としても小さすぎるので詳述はしません。そして今や、〈ゴダールに引いてもらえるなら光栄〉ぐらいの玉座に座っています(まだフランス公開の目処が立ってないらしいので、ひょっとすると何かが転倒したのかもしれません)。リア王であり道化でもある。

 合衆国は今、禁酒法時代や大恐慌時代と似て、倫理観が病的に厳格になっている事はどなたもご存知でしょう。やっと固まった肩書き名〈ミュージカル・スーパーヴァイザー〉ですが、これはハリウッド映画に於いて、劇伴であるOST(オリジナル・サウンドトラック)とは別に、既成曲をDJのように選曲し、劇中に配置し、クリアランスまで請け負う仕事で、つまり現在の合衆国映画の音楽は、タンデム体制になっている訳ですが、当然これは、エンドロールの表記に於いても、極端に記述が厳格になり、出版元の明記は勿論のこと、何年の何というアルバムの何曲目、ぐらいまで書いてあるものが、一覧票になります。

 そして、「イメージの本」のラストは、この〈一覧票〉しかし、その意味はハリウッドとか全く別の、〈文字列として美しい〉だけ、という審美的なものです。ただただ、名前と作者名が書いてあるだけです。そして、これは話題になっていますが、日本映画で唯一引用されている溝口健二の「雨月物語」に関しては、恐らく忘却によって、リストアップされていません。

 〈仇敵は似る〉という詩的な現実がありますが、「イメージの本」のエンドロールと、一般的なハリウッド映画のエンドロールは、一見するだに見分けがつきません。この事は、本当にすごい。本稿で最も強調したいことです。

 他にも、第5節で描かれるアラブ社会に関する考察が、過去最高にロマンティークになっている事、引用にアラブ社会のポルノ映画まで召喚されている事、それがゴダール平均を遥かに超えて、直接的にエロティークである事、等々、語るべき箇所はまだまだ山ほどあるのですが、多くの語り部の方々に譲ります。