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コロナ禍とアーティスト活動について

――また、昨今の情勢に関連しまして、ライブが軒並みキャンセルになってしまったそうですが、最近はどのようにお過ごしですか?

「3月22日を最後に、ライブ活動はストップしてしまいました。4月の緊急事態宣言が出るまでは、ライブハウスへのキャンセル連絡とミュージシャン連絡に明け暮れ、かなり精神的に参っていました。

こちらもキャンセルにしたくはないけれど、お客さんを能動的に集める行為をしてお客さんの命の保証はできないし、常識的に考えてキャンセルせざるを得ないけれど、お店は開けないことには収入がない。だから、こちらからキャンセルの申し出をすることが、今まで一緒に頑張って良い音楽空間を作ってきたお店に対して見放す連絡をするように感じて、結構心の負担になっていたようで、夢の中でまでキャンセル連絡をしていました。

その反動で、緊急事態宣言が出て全ての予定がキャンセルになったら、練習もクラシックばかりしていたり、しばらくぼんやりゆっくりしたりしていましたが、4月後半から自宅でソロの配信ライブを始めて、人に向けて演奏するという日常に少しずつ戻っています。6月中旬からライブは再開できそうです」

――このコロナ禍が収束したら、どんなアーティスト活動をしたいとお考えでしょうか?

「まだ、そこまで考えていないです。今は、お世話になった愛するライブハウスが、なんとか苦境を乗り越えられるようにはどうしたらいいのだろうかと考えています。

アーティストはもともと根無し草。どこへ行っても仕事はできるし、そのためにスキルを磨き曲を作っているので、能力のある人、本当に音楽のことしか考えられなくてやめられない人は、絶対どんな形でも生き残っていくでしょう。しかし、ライブハウスは、人と音楽を育てる畑です。畑がないと作物は育ちません。ライブハウスは、そこに人が来ないと収入が断たれ、存続できません。

コロナ禍の最初のうちから、幾度となくライブハウスは名指しされ、ライブハウス周りで働く人への配慮が全くなく、保証もせず自粛要請=実質休業を強要した状態で、さらに5月14日の会見で〈ライブハウスに行かないで〉という言葉を聞いたときは、死刑宣告のように感じました。もうこの時点で、ほとんどのライブハウスは休業しちゃってるし、知っているライブハウスも何軒も閉店しているんですよ。

補償のない中で頑張って耐えているライブハウスで働く人たちはどんな思いで聞いているのだろうと、思いを馳せずにはいられませんでした。同時に、いくら収束したところで、未来に希望は持ちにくいだろうなと、胸が痛いです。名指しでライブハウスに行くなというなら、きちんと補償するべきだと思っています。

アーティストが自分のことだけ考えておけばいい時代は、とっくに終わったと思っています。ジャズは自主性とコミュニケーションを非常に求められる音楽で、まさに政治的なものです。私自身ここ10年ぐらいで意識していることではありますが、トランスクライブ=いわゆる耳コピは、うわべの言葉、音符の羅列を真似るだけではなく、なぜその表現を選んだのか、最終的にアーティストの思想を学ぶためにするのだと思っています。思想のない音楽は、美しく作られた命のない造花のようになるでしょう。

もうコロナ以前には戻らないと思っています。どういう社会になるにせよ、音楽で育んだ思想を足場に活動して行くつもりです」

――名指しで営業自粛を余儀なくされたライブハウスはもちろんのこと、いまアーティストもリスナーも、社会全体が大きく疲弊していると思います。

「お店も体力が持たないところから閉めていっていますが、正直なところ、ミュージシャンもかなり精神的に疲弊している人が増えているように見えます。

まず、怒らなくなった。怒っても変わらないから、長い冬をやり過ごそうという感じの人が確実に増えていると思います。自分の体力温存にしかリソースを割けない状況になっているのは、わかります。2月にライブハウスを名指しされ、3月からずっと〈自粛〉という無責任で投げやりな状況に追い込まれ、一番最初から割りを食っていたのに、5~6月にはもう怒れなくもなっているんですよ。

クラウドファンディングなどの自助も、人気投票みたいな側面がありますから、意外と見ているだけで疲れます。あちこちで立ち上がってしまうと〈どこも助けたいけど全部は助けられない、自分のことも大変で本当は人を助ける余裕はない〉と、閉塞感も募ってきます」

――まさにその通りだと思います。

「もしこの後コロナが収束して演奏できるようになったとして、店は減っているけどミュージシャンは増えている、店は今までのチャージバック・システムだと、とにかくお客さんを呼べる人がありがたいという状況が加速することになります。それでツアーが回れるかというと、多分今後回れません。今でも知名度がある程度ないと、ツアーは成り立ちませんし、お客さん側がいくら〈来て欲しい〉と言ったところで、その話の9割は無くなります。店が保証しない、できないからです。

ミュージシャンから見て、知名度を得るためのメジャーデビューという言葉は、近年ほとんど価値も持たなくなりました。音楽誌に掲載されることも、以前に比べるとあまり価値を持たなくなりました。

すでにリーマンショック以降、インフラがどんどん変化するにも関わらず、ビジネスのシステムは90年代までの景気の良かった時期のものを使っていたことと、2000年代の一見公平で市場原理的に見えるチャージバックが当たり前になってしまっていて、力のある良いミュージシャンが身動きが取れない状況になっていた感がありました。

コロナでこれだけ業界の足場が崩れると、コロナが明けても確実に今より厳しい状況になって、以前と同じシステムでは確実にやっていけないと思います。業界のシステム自体が変わるようなドラスティックな変化があるかもと思ってはいましたが……それを具体的に考えて良い方向にいくように考えている友人もいます。私自身も、ミュージシャンが個人で配信などの動きをしているのは、とても良いことだと思っています。表現の場を自分自身で作って行くことは、今後当たり前になっていくのではないでしょうか」

――ええ。

「また、個人やお店での投げ銭での配信の実施、お店に対するクラウドファンディングやBandcampなど、これも大きな変換点になる可能性があるのではないか思っています。ミュージシャンの演奏に対して、良かったという気持ちをそれに見合う金額にして託す。お店が今まで良い場所を提供してくれていたことに対して、もっと続いて欲しいという応援の気持ちを積み立てる。今まで、音楽の供給側が決めた価格でやりとりしていた音楽の対価が、リスナーが気持ちや応援を込めてその価値と額を決めて渡す、という逆方向のやりとりが、この2か月急激に増えました。

近年のサブスクの状況や、CDがどんどん売れなくなってCDショップも減ってきている中で、音楽に対するお金の払い方が、以前と随分変わってきています。しかし、それがこのコロナの2~3か月、経済活動がほぼ止まった状態で、より心情的なものになっているのではないか、本来形のない音楽というものに対して自然なお金の払い方になっているのではないかと感じています。

皮肉なことですけどね。私自身は報酬のある仕事はほぼ全部2か月失ったわけですが、その中で報酬ではないお金の動き方に、ある種の心の豊かさを見出してしまった。

もちろん、〈プロが無報酬でやるべきではない〉ということや、〈仕事の依頼として対価を払わない〉という発注と請負の関係とは、全く別問題です。リスナーの側が価値を決めるという動きは、自然なことなのかもと。

でも、今まで〈どの有名なお店に出演できた〉〈どのフェスに出演できた〉〈あの雑誌に載った〉ということは、元々あったシステムの椅子取りゲームという側面があったのだろうな、と感じてもいます。このコロナ禍で、椅子を死守して以前の状態に戻す努力をするよりは、守るべき椅子は守っておいて、新しい椅子を作り、皆で持ち寄り、より個々の表現者が表現しやすくなる方がいいんじゃないかなと、そんなことをこの2か月考えています」

――コロナのせいで、音楽への対価の払い方とか、音楽業界の仕組み自体を見直さなくなければならなくなった、ということですね。しかし、例えば投げ銭システムではミュージシャンは儲からないのでは?とも思ってしまいますが。

「私自身が投げ銭にあまりネガティヴになっていないのは、〈高槻ジャズストリート〉の影響が大きいです。〈高槻ジャズストリート〉は1999年から始まった大阪のジャズフェスですが、商店街から始まり徐々に規模が大きくなって、今年は中止になりましたが開催されていたら22回目でした。

私は20年に渡って出演しており、そちらは初期から一貫して全会場無料、ゲスト・ミュージシャン以外は投げ銭で開催しています。今、高槻では何千人単位で聴いてくれる大きなステージに毎年立たせてもらっていますが、ぶっちゃけた話、私は報酬は頂かず、今も投げ銭で参加しています。

なぜかというと、表現者としてとても楽しいからです。

音楽が観客に届くと、必ず何かが返ってくる。それは、その時の投げ銭であったり物販だったりという物質的なこともありますが、その後ライブハウスにわざわざ足を運んで頂くことだったり、〈初めて聴いたけど良かった!〉という言葉だったり、演奏を聴いた後のフィードバックが全て、音楽家として初心に戻る何かが返ってきます。

〈無料の会場に来るお客さんは、お金を払ってジャズクラブには来ない〉〈無料を根付かせるのは良くない〉というご意見もわかります。

しかし私自身はそこまでネガティヴに捉えることはないと思っていて、逆に、〈無料だからこそ、可能性を秘めたお客さんがたくさん聴いてくれるかも〉と思って、そこに届くように演奏すれば何か返ってくるというその歓びを覚えちゃったんですね。だから、毎年ノーギャラの投げ銭でも、行く価値がある場所だと思って行っていました。

私も含め、ジャズ・ミュージシャンって、ミュージシャン以外をそこまで信用していないところがあると思うんです。リスナーよりプレイヤーである自分の方が明らかに音楽を聴き込んで熟達していると思っているし、それはそれである面で真実ですが、そのために同じミュージシャンやヘヴィーリスナー以外の耳と感性を信用できない部分があるというか。

それは、違うと思うんですよ。

皆それぞれの人生があって、音楽をよく知らなくても、人生のある瞬間に自分を救ってくれる音楽に出会うかもしれない。その感動は、どんな音楽練度の人であっても、人生で大切な感動だと思います。もしかしてその瞬間が、自分の演奏機会になるかもしれないのですから、もっと人の感動する心を信用してもいいと思うんですね。

こういうことを、毎年の〈高槻ジャズストリート〉で感じています。無料だからこそ事故的に出会い、感動の交換がある。それがこちらのエネルギーになるんだなと。

最近の投げ銭での配信や、お店のクラウドファンディングでも、同じようなことを感じています。ライブハウスやミュージシャンが育てたリスナーが、ライブハウスやミュージシャンを今、応援し、還元してるわけでしょ。

私はこの2か月間で今までと違う感触を強く感じていて、そこに希望を感じています。

プレイヤーも、シーンを作る自負を持たなければいけないし、気持ち(とそれに付随したお金)が循環する良い社会を作る意識を持たないといけないな、と思っています。

もちろん、ライブハウスを名指しして保証もせず自粛要請=実質休業を、公から強要されている状況には、しっかり声を上げて行った上でですけどね。今、ライブハウスはかなり再開していますが、人数制限や時間変更など、対応に相当気を使っています。再開は喜ばしいことですが、全く補償なしで自粛要請され悪者にされていた事実を、なんとなくうやむやにされて時間が経っていかないように、ここに書いておきます」