0と1のあいだにある、はっきりしない予感のようなものを音楽にしてきたバンド

6月に解散が発表されてから、なんだかさみしくなるのでシャムキャッツの曲を聴かないようにしていた。それなのに、この原稿を書かなくちゃいけなくなったので、仕方なくベスト・アルバムの曲順でプレイリストを作って聴いている(『はしけ』の“アメリカ”はSpotifyにないけれど)。

シャムキャッツが解散する、と書かれたメールには、もんのすっごくダサいような、一周回ってかっこいいような、よくわからない〈大塚夏目藤村菅原〉というアルバム・タイトルが載っていて、それを目にしたときは、思わず笑った。最後の作品に掲げられた8つの漢字は、〈これが俺たちなんです、こうとしか言いようがないんです、すんません〉なんて顔をしているようにも見える(〈Siamese Cats Farewell Exhibition〉も、まさにそんな感じだった)。

それにしても、ファンの誰もが〈シャムキャッツが解散した、この世の終わりだ!!〉というふうではなくて、みんなどこかのほほんと〈生きてりゃまたどこかで会えるっしょ~〉みたいな感じなのは、このバンドだからこそなんだろうな、と思う。身勝手な投影も、いきすぎた同一化も、歪んだあこがれも、シャムキャッツには似つかわしくないし、このバンドは常にそれらを――あえて強い言葉で表すなら――拒んできたのだから、〈俺は俺でやったし、まだやるし、お前もそうしてくれ〉という夏目さんの言葉は、じゅうぶんすぎるほどに伝わっているような気がする。シャムキャッツからは、てめえのことはてめえでやれ(do it yourself)、と教わったのかもしれない。

けれども、シャムキャッツというバンドは、力強くなにかを言い切ったり、プロパガンダめいた旗印を掲げたり、明確な価値観やアティテュードを打ち出したりはしなかった。たぶん。すくなくともぼくは、そんなふうに感じている。

そうするよりも、はぐらかしたり、立ち止まって一息ついたり、ちょっと振り返ってみたり、寄り道をしたり、ゆっくり進んでみたり。……そんなようなことを音楽にしてきたんじゃないかと思う(そして、それは、〈着飾るな〉とか、〈自然体であることがいいんだ〉とか、そういったわかりやすいことでもない)。だからこそ、〈俺たちはやれる〉じゃなくて〈なんだかやれそう〉と、〈君のことを絶対に忘れない〉じゃなくて〈君の名前を思い出したり 忘れたりする〉と歌ったんじゃないかな。とくに、『AFTER HOURS』(2014年)以降のバンドのありかたからは、そういうようなことを感じていた。

たとえば、0と1のあいだにある、はっきりしない予感のようなもの。まだここにはないけれども、たぶん豊かななにか。ぶよぶよとした、不確かな感触をもったもの。遠くのほうで、ちらちらと揺れる灯。……なんてふうに、比喩を書き連ねたってしかたがない。けれども、具体的な、しかも身近で親しみやすいことやエモーション(〈お母さんのこととか/保険のこととか 色々ね〉)を音と言葉で表現してきたバンドについて、最後に残ったのは、なんとも抽象的なイメージだった。

シャムキャッツのラスト・レコードには、1面ごとにドラマが用意されている。それは、うまいぐあいに起伏をつけて、きれいな起承転結を設けた、親切なドラマなんかじゃなくて、もっとうねうねとしていて、あっちに行ったりこっちに行ったり、なにやらでこぼことした道筋の、ちょっと不格好な、物語の語り手が何度も言いよどむようなドラマだ。それはそのまま、このバンドが歩んできた道のりなのかもしれない。

けれども、例外がある。C面の“マイガール”とD面の“このままがいいね”。この2曲は、力強さに満ちた、決定的ななにかだと思う。4人の演奏が、歌と言葉が、これ以外にはありえない、という強い確信を持ってそこにある。まるで魔法のような、〈this is the one〉という強烈でたしかな感触をもっている。

シャムキャッツ、かっこいいじゃん。

レコードというのは未来への手紙のようなものだから、いつか、10年後か20年後か、どこかのレコード店でこの2枚組をたまたま手にして聴いたひとが、そんなことを思うにちがいない。そういう、はっきりしない予感のようななにかが、このレコードにはたしかに刻まれている。 *天野龍太郎