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1. 出身地と音楽活動を始めたきっかけ(バンドであれば結成のいきさつ)について教えてください。

「東京出身です。高校の頃に軽音楽部でパンクやミクスチャーのバンドでボーカルをしていました。この頃は音楽をやるというより男子校生たちのありあまるエネルギーのはけ口という感じで、ただただマイクごしに皆で叫んでおりました。進学校だったので卒業と同時にそのバンドはしっかりなくなりました。

その後イギリスの美術大学へ留学し、アニメーションを学びました。一人になってしまいましたが歌うことを欲していた僕は街の小さな楽器屋でDeanというゴリゴリのヘビメタメーカーのアコースティックギターを買って自身で作詞作曲を始めてみました。ギターの弾き方もなんとなくしかわからなかったので、とりあえず太い弦でベースを作り、細い弦で上のメロディを鳴らす感じで探り探り歌に合わせて作っていきました。

慣れない土地での生活に疲れた心を癒すためだったり、ポジティブな気持ちになれるように自分で自分に歌っていたような気がします。この頃に初めて自分の感情や好きな情景を歌にしたり、曲を作るという感覚を覚えました。

作った曲のおかげで友達ができたり、誰かの背中を押してあげられることがあったり、ここでの時間は今でも音楽活動の根幹な気がしています。日本に戻ったらいろんな場所でいろんな人に聴いてもらおうという思いで作り続けました」

2. 現在の音楽性に影響を与えたと思うアーティストや楽曲は?

「挙げればキリがないですが、時代によって影響を受けた音楽は変わっていき今に繋がっている気がします。高校の頃に一番影響を受けたのはRage Against The Machineです。初めはすごい恐い顔して怒りをぶちまけている人達がいるぞ、くらいだったのですが歌詞を知ってゆくと抑圧から解放させるメッセージが凄まじくて、同じくしてエネルギーのはけ口を探していた血気盛んなVoli青年にとっては格好の憧れの的でした。

レイジは後半にかけて洗練されてゆくイメージですが、一枚目のアルバムのハードコア感が残っていて荒々しい感じで好きです。

特にボーカルのZack De La Rochaに憧れて自分もドレッドヘアにし、それを振り乱しながら街を闊歩しておりました。ドレッドヘアと白いシャツ、学校内でそんな格好をしている人は他にいなかったのでそれが自分のオリジナリティとしていたのですが、レイジの来日公演に行ったらドレッドと白いシャツの男だらけで、自分は井の中のザックだったのだと痛感しました」

「その後はクラブにドップリはまってヒップホップやテクノを聴いてました。一番聴いていたのはDialated PeoplesDJ Babuのトラックだったと思います。巷ではギラギラしたギャングスタラップやR&Bが流行っていましたが、A Tribe Called QuestMos DefBlack SheepなどNative Tongues周りの生音感のある渋いトラックが好きでした。

ヒップホップカルチャーに傾倒してブレイクダンスを始め、相模大野の駅でクルクル回っていました。誰かにサンプリングされるされるようなクラシックな曲を作りたいといつも思っています。

また兄貴の影響でデトロイトテクノにもハマりました。抑圧された現実社会から解放させるために意識を宇宙へ飛ばすブラックマシンミュージックの哲学に強く惹かれました」

「イギリス時代には日中は穏やかな音楽を聴き、夜はナイトライフに勤しみました。ひとりの時間も多かったので浸れる音楽を好みました。近くの森にギターを持っていって、鳥のさえずりや葉の擦れる音に合わせてアコースティックギターを爪弾くという悟りの境地のような事をしていました。

この頃一番聴いていたのはBrian Enoです。特に“By This River”という曲は何千回と聴いた気がします。この曲のシンプルなピアノのメロディに心を掴まれ、そのフレーズをピアノで何度も練習したりしました。展開もなく、リフがただ流れていくシンプルな曲なのに心にずっと留まる。そんな曲が自分もいつか作れたらと思います。

クラブ系の音楽ではNinja Tuneが好きで、特にBlockheadSkalpelMr. Scruffを好んで聴いていました」

「日本に戻ってからライブハウスやライブバーで歌を歌い始め、弾き語りという世界を知りました。ギター一本声一つで表現し、エンターテイメントさせる奥深さを知りました。特に新高円寺にあるSTAX FREDというライブハウスに入り浸り、そこで演奏するアーティストたちのライブを見ては毎回刺激を受け、新しい世界を吸収しまくりました」