EUから離脱したイギリスならではの実感だろうか。ところでレーベル名のSN Variationsは、SomethingとNothingを略したもの。ケージの有名な二つのレクチャーのタイトル、〈Something〉、〈Nothing〉から取ったという。だからナンバー・ピースがカタログに並ぶのか。彼もその血筋の作曲家なのか。

 「作曲は独学で、ピアノ、フルート、ギターを子供の頃、学んだ。それにシェフィールド出身だからエレクトリック・サウンドは、私にはいつでもどこにでもあるものだった。モノフォニックのムーグや簡単なドラム・マシーンを買って、この二つの組み合わせで色々試してた。90年代にはマンチェスター大学で文学を専攻していたけれど、そのころは電子音楽やクラブのバブル期で、私も巻き込まれた。私には共作するパートナーがいて、アタリのコンピュータ用のゲーム機とアカイのサンプラーを使って仕事をしていた。アントニア・バードの『Face』が映画の最初の仕事だった。大学で映画音楽の作曲を教えていた頃、パートナーとは別れ、10年前から自分の作品を書き始めた。私の音楽へのアプローチはある一面では圧倒的な変化を遂げたし、ある意味では全く変化しなかった。私が他のアーティストと同様に電子音楽を制作し始めた頃は、安いハードウエアや楽器で実践的に音楽を制作していた。それが今ではコンピュータの中だけのことになった。最初の頃、私の書く音楽は現実の空間で演奏されるものであって、テクノロジーの使用にはたくさんの制限を設けた。選択肢がたくさんありすぎると、意思決定や表現に時間がかかってしまうように思うから」

 クリス・ワトソンのフィールド・レコーディングによる作品は、かつてのキャバレー・ヴォルテールを彷彿とさせながら、別次元の鮮明な音響を放出する。70年代、キャバレー・ヴォルテールを産み、90年代にワープをもたらしたシェフィールドはエイドリアンにとってどんな場所だったのか。

 「シェフィールドにいた当時の記憶は、子供の頃のもの。灰色だったし、街が潤っていたという印象はなかった。キャバレー・ヴォルテールのようなエレクトロのシーンは、私が街を離れて暫くして出てきた。だけど明らかに、革新的な音楽をやっているのは、街のわずかな人たちだったという印象はある。それから後、マンチェスターから戻ると、ワープ・レコードの人たちと知り合った。90年代の初めの頃、事務所に行ってはプロモのCDを持ち帰ってたよ。90年代、シェフィールドのクラブは生き生きしていた」。

 ケージへの関心は、レーベル名から明らになったわけだが、何故シェルシなのか。

 「多分SNSで偶然見つけたんだと思うけれど、シェルシに対する関心は、翻訳の連続のような彼の作曲方法にある。即興をテープに録音し、それが採譜されて、様々な組み合わせの生楽器で演奏される。私は音楽におけるこの翻訳という考え方が気に入っていて、作品を書くのに何度も使って来た。私の作品に“Shfting Graines”というのがあり、この曲を弦楽四重奏が演奏したのは、グラニュラー・シンセシスの要素を書き込むための試みだった。シェルシは、異なるチューニングやグリッサンドを創りだすためにピッチを変化させる事が出来た初期の電子キーボードを使っていて、それを録音し、その録音を採譜してもらっていた。最近、シェルシが単音や、一つのピッチの中で起きるクラデーションに絞った彼の関心がルドルフ・シュタイナーの考えから来ていると知った」。

 翻訳は、本の中にもう一つ新たな本を開くことだと思う。音楽の制作過程での媒体のトランジションは、偶然性のオペレーションが産んだケージの音楽のように自律性を獲得するのだろうか。

 「無意識の創造性は実際にとても強力なものになると思う。それがその場で行われる即興であれ、より直観的な作曲のプロセスで行われるものであれ。それはアルゴリズムによる作曲も同じだと言えると思う。作曲家として音楽を書いていくプロセッシングが琢磨の場合どのようなものか見てきた。私とは違うけれども、結果は素晴らしい。琢磨のアルバムでアキラ・ラベレイスが使ったwabi-sabiと呼ばれるプロセッシングの使い方も気に入っている。wabi-sabiは、常にオーガニックなことだと思っていたけれど、それはデジタルでもあり得るのだと悟った。私がこれまでやって来たこととは随分違うけれども、私の新しい音楽のためのいくつかの作品では、エレクトロ・マグネティック・レシーヴァーを手に即興したり、歩き回ったりするのをクリス・ワトソンが録音して、それを琢磨がプロセッシングして一緒に作業した」。

 カリスマ的、などとは思わせない謙虚さと知性が随所に漂う。レーベルの音楽は、それぞれがエイドリアンとの関係性の中だけで響き合うけれど、彼ですらトニックでもドミナントでもない。それはケーデンスを喪失し、脱中心化した関係性のネットワーク。音楽はきっとこの輪の中で回復するのだろう。

 


エイドリアン・コーカー(Adrian Corker)
ロンドン在住の作曲家/音楽家。主に映像作品のためのスコア、映画、テレビ番組を手がける一方で、ライヴ・コンサートやインスタレーションの企画も行う。SN Variationsとその姉妹レーベルのConstructiveのレーベルを主催、自身の作品やその制作で関わったアーティストの作品を中心にリリース。
https://snvariations.com/​
http://constructivemusic.co.uk/

 


寄稿者プロフィール
高見一樹(Kazuki Takami)

コロナ禍第一波の頃、ポリリズムの本を自分のためだけに翻訳しその後、知人の勧めでモートン・フェルドマンの翻訳を秋頃から開始して今春終了。今、磨きに磨きをかけてます。ヴィジェイ・アイヤーのエッセイの訳の許諾が出たので、note版intoxicateに上げる予定。