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(左から)マーライオン、見汐麻衣

身近な人の死との向き合い方

マーライオン「……めちゃくちゃ暗い話なんですけど、ガチの悩みを言ってもいいですか? ここ数年で、友達が立て続けに亡くなっちゃったんですよ。2016年に親友が轢き逃げで亡くなって、その時は悲しむタイミングを見つけられなくて、2年後に急に一気に来て、体調を崩しちゃって。さらに、去年7、8人が亡くなっちゃって……」

見汐「それは、どれくらいの距離感の人?」

マーライオン「昔よく遊んでいた友達とか、仕事のパートナーとか……」

見汐「それは大変なことでしたね」

マーライオン「去年は、それこそコロナのこともあったので、落ちに落ち込んで……。2016年に親友が亡くなった時はパニクってしまって、他人から〈それ、おかしいよ〉って言われるまで気付かないような言動を頻発してしまっていました。自分の行動に、自分でリミッターを掛けられなくなっていたんですよ」

見汐「理性が働かなかったんですね」

マーライオン「そうですね。それで、2018年頃に一気に体調を崩して。その後、なんとか〈こういう時にこういう風になったら、こういう対処法をやってみよう〉とか、そういうことがある程度できるようになった、見つかったんですよ。でも、去年一気に来すぎて、半年間落ち込んだんですね。

そういうことって、年を取るごとに増えていくんですよね。見汐さんにはわかっていただけると思うんですけど、音楽をやっていると、出会う人って多いじゃないですか」

見汐「そうよね。必然的にね」

マーライオン「僕、今後こういうことがもっと増えていくと考えたら、ショックを受けて悲しくなっちゃって。東京で出会った人に限らず、地方へ演奏しに行って出会ってきた人がすごく多いので。それを考えたら、めちゃくちゃ悲しくなっちゃう夜があるんです」

見汐「不幸な出来事が他人よりも現実で多かったから、そういう不幸な未来が待っていると強く感じてしまう、ということ? ……今の話を聞いただけだと、私は、未来のことに関しては、全部取り越し苦労だと思います。

周りで起こった不幸なことが未来にも起こりえるというのは、自分の意思の問題じゃないじゃない? 私は、どっちかっていうと、〈そういうもんだ〉って最初から思っているんです。そうなった時は、もうしょうがないよね、としか思えないんです。どれだけたくさんの人と出会ったって、結局、自分がこれから先何年も傍にいて一緒に過ごしていく人なんて、数えるくらいしかいないと思っていて。

もちろん、これまでに出会った人のことを思い出すことはあります。過去にツアーで出会ったたくさんの人たちの中で〈あの人、亡くなったよ〉っていうことは、私の場合は、お客さんのことが多いかな。よく来てくれていたお客さんが、それこそ自ら命を絶ってしまった、とか。そういうことを聞くと、〈えっ?〉って思うんです。その人の名前も年齢も職業も何も知らないけど、そこに行ったら必ずその人がいるっていう、その場所に集う知った顔に対しての安堵感はずっとありましたし。でも、私は、それに関しては、それ以上でも以下でもないというか、それ以上のことは何も思わないんですね。

マーライオンさんは、いろんなものを自分の人生のこととして引き受けすぎているんじゃない? 私は、いくつになっても自分のことで精一杯な人間だから、他人様のことまで抱え切れないんです。〈自分の身を粉にしてでも、この人を助けたい〉って思う人は、すぐに顔が浮かぶ一人、二人くらいしかいない。それ以外のことは、なんとも言えないよね。しょうがない、としか言えない。出会った人の人生を自分が引き受けているわけではないですし、深く関わっているわけでもないから。〈あんまり深く考えなくていいんじゃない?〉としか、私は言えない。ただ、マーライオンさんは、感受性が強いからそうなっちゃう、というのがあるんでしょうね。

あと、20代で周りから7、8人の人が急に居なくなるっていうのは、よっぽどのことだと思う。私には、そんな経験はないから。あなたが負ったしんどさに関しては、〈わかる〉とは絶対に言えない。それは、もう〈大変だったね〉としか言えない」

 

〈ぶれる〉ことで真ん中を歩けるようになる

マーライオン「去年は、自分の挙動がおかしかったんです。例えば、友達に言わなくていいことを言って傷付けちゃったりとか、自分の思っていることがこんがらがる瞬間があったりとか。

そこで、また他人との距離感の話に戻るんですけど、見汐さんの曲は、僕にはフラットに聴こえたんですよ」

見汐「私の曲がチューナーだったのね」

マーライオン「そうなんですよ」

見汐「それは最高じゃないですか」

マーライオン「埋火も見汐さんのソロアルバムも、全部通して延々と聴いていました。

僕の主観では、見汐さんの音楽を聴いていると、大きな集団の輪があるんだけど、自分はそこから外れた端にいて、でもなぜか暖かい、みたいに感じるんです。一人になれる感覚がある音楽だと思います。それは、他のミュージシャンの音楽にはあんまりない、見汐さんの音楽だけにあるもので、本当に素敵だと思う。そこに自分の身を置かないと、しんどすぎたんですね」

埋火の2011年作『ジオラマ』収録曲“溺れる魚”

見汐「私の音楽に、客観性を強く感じるってことなのかな?」

マーライオン「客観性を飛び越えて、ふらついている感じなんですよ」

見汐「ふらついているの、私(笑)?  まあ、ふらついてはいますけど、いつでも」

マーライオン「ふらついているけど、楽しそうにふらついているというか(笑)」

見汐「その話とリンクするかはわからないですけど、世の中の人は、ぶれることってマイナスの意味で捉えているように感じるんですけれども、仏教の言葉では、〈ぶれる〉ってそういう意味ではないんだそうです。バランスを取るってことでもあると思うんだけど、人って、ぶれることで真ん中を歩けるようになるんだと。私、それを本で読んだ時に、〈そっか。『ぶれる』って、みんなマイナスの意味で使いがちな言葉だけど、逆に言うと、ぶれていない人の方が危ないぞ〉って思った。

例えば、私が埋火をやめてMANNERSっていうソロプロジェクトを始めた時に、すごくいろんなことを言われたの。〈なんでこんなことを始めたの?〉〈埋火みたいな音楽がいいと思う〉って。そう言われて初めて、〈あっ、私ってこういうふうに見られていたんだ〉って知る機会があって。その時、〈他人って、自分が思ったようには見てくれないんだな〉って思ったの。他人から見えている自分というのが私なのかと。〈社会で生きる〉って、相手が在って、そこで初めて自分というものが在ることだと思うんですね。それは、MANNERSをやらなければ気付かなかったことなんです。

それ以降特に、自分に固執しなくなっていったというか。自分の思っている〈正しさ〉を固定してしまうと、相手にもそれを同じように求めてしまうことが嫌だなと思って。常に自分のことを疑うきっかけを相手からもらえる方がいいじゃないかと。

あと、世の中は大きな勘違いで回っているんだなって思った。みんな、自分が見たいようにしか物事を見ない、解釈しないんだなって思った時に、その素敵な勘違いに助けられているんだなって思って、それを曲にしました。それは、『うそつきミシオ』で聴いてください(笑)」

マーライオン「そうだったんですね」