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 展覧会では、ジョン・ゾーンの〈コブラ〉(1984)を含むゲーム・ピースにも共通するような、即興性やゲームの要素を取り入れたスコアとしての作品「シャッフル」(2007)や、異なるレコードのジャケットを組み合わせた「ボディ・ミックス」(1991-92)、「架空のレコード」(1988-97)など、マークレーが80 年代から手がけたさまざまなビジュアル・コラージュを見ることができる。これらの作品に見られる即興やサンプリングといったカルチャーは、80年代、分野を問わずアーティストたちを魅了した手法でもある。マークレーは当時、その流れをどのように受け止めたのだろうか。

 「当時は美大を卒業してニューヨークに出て来たばかりで、お金もなくて、狭苦しいアパートで暮らしていました。やりたかった彫刻でさえ造ることができなかった。どうすればアートの世界に入れるかもわからなかった。倉庫すら借りることもできず、当時の作品はずいぶん捨ててしまいました。でも当時のニューヨークの暮らしにはそれほどお金もかからず、私はギャラリーでアルバイトをしていました。今日はあることをしていても、翌日はまた別のことをしていたり、その日暮らしだったのです。そもそもマスター・プランなんてなかったから」

 置かれていた状況からの自然な成り行きに身を任せる生活。そんな当時の音楽コミュニティーとの関わりに思いを馳せる。

 「ボストンにいた頃はバチェラーズ・イーブン、ニューヨークではモン・トン・ソンというバンドをやっていました。ですが『ノー・ニューヨーク』の流れも終わってしまい、バンドをやるには遅すぎた。そんな時、ジョン・ゾーンが、ターン・テーブルを演奏する奇妙なやつがいると聞きつけたようで私を誘いました。そうしてダウンタウンの即興音楽のシーンに出入りして演奏するようになり、たくさんの優れたミュージシャンと出会いました。でも実際、私が世間に注目されるようになったのは、音楽ではなく、ダンス・シーンを通してでしょう。中馬芳子のような舞踊家もその一人でした。彼女のいくつかのプロジェクトに参加し、それをきっかけに、多くのダンス作品に関わるようになりました。マッド・クラブ(当時の伝説的なナイトクラブ)での騒ぎも終わりかけた頃で、キッチン(ニューヨークのオルタナティヴ・スペース)ではキャロル・アーミテージとも仕事をしました。マース・カニングハム舞踊団やコンタクト・インプロヴィゼーションを行う人たちも知っていて、シモーヌ・フォルティのムーブメントのクラスも受けました。ダンス・コミュニティーとのつながりから、そうした世界での活動が注目を集めたのだと思います。現場で否応なしにたくさんのコリオグラファーやダンサーと出会いました」

 当時のニューヨークはアートからダンスまで様々なジャンル間で人の行き来があったことが感じ取れる。

 「今よりもずっとクロスオーバーした動きがありました。特別な時期だったんだと思います。アートの世界はそれほど大きくもなく、商業的でもありませんでした。みんながイースト・ヴィレッジの界隈に住み、とても安く暮すことができた。外出すれば友人に出くわさない日はなかった。そういう意味ではまだコミュニティーがあった。もちろん、ニューヨークはその後恐ろしく物価が上がり、多くの人が離れていくことになるわけですが……」