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81年頃

我々は離散集合する境界線のはっきりしないアメーバのような集合体だった

――渡邉浩一郎さんはどういった人とセッションをしていたのでしょうか。

「それは、CD(『まとめてアバヨを云わせてもらうぜ』)に収録されているとおり、多くの人々と、いろんな形でやっていたので、数が多すぎて挙げきれないくらいですが、工藤冬里さん、後にマヘル・シャラル・ハシュ・バズのエンジニアをやっていたテリー(新井輝久)、金田一(安民)さん、鈴木健雄さん(Vedda Music Workshop)と特に気が合っていたかもしれません。GESO君(第五列)とも仲が良く、よく私のアパートに来て、ありとあらゆる音楽を聴いて、楽しく過ごしました。アパートの近所のおばさん達からは、怪しい若者が出入りする危険な住人と思われていました。

普通のバンドであれば、わりと閉鎖的な固定メンバーであって、さほど動きはない中で音楽性を詰めていくものだと思いますが、我々の活動は、若さゆえのフットワークの軽さもあったのでしょう、沢山の人が居て、その中で自由に気まぐれに組み合わせて、毎回違った形でライブを行っていたのです」

――そこに集った皆さん、特に渡邉さんは、音楽やその他の趣味はどんなものだったのでしょう。

「みんなとても博識で、私は勉強になりましたが、浩一郎はオールジャンル。プログレ、歌謡曲、中でもクレイジーキャッツが大好きでね、シャンソン好きで、特にレオ・フェレの『悪の華(Les Fleurs Du Mal)』(1957年)が大好きでしたね。映画音楽では堀田さんの影響が大きかったですね。

また現代音楽も、そして映画も詳しかった。マヤ・デレンの映画が大好きで、彼のバンド〈午後の網目〉はそこから名前をとったようです。他にもカスパー・ハウザー、(ヴェルナー・)ヘルツォークなど。当時はDVDはもちろんビデオなど無かったので、大勢で待ち合せて神田あたりまで映画を観に行き、帰りは飲んで、語り合いました」

――そういった交友関係は、ずっと続いたのでしょうか?

「82年には、吉祥寺にライブハウス〈Gatty(ギャティ)〉が出来たので、さらに頻繁に小規模なライブが出来るようになりました。6月には中野のテレプシコールで、フェスティバルのような大勢のメンバーによるセッション大会がありました。

浩一郎が恒常的に参加していたのは、マヘル、まだ、ひまご等ですが、他にもほんとうに大勢の人と不定期に、やっていました。先ほど言ったとおり、我々はアメーバのように正体なく離散集合する境界線のはっきりしない集合体だったのです。法政大学の学館ホールで行われ、浩一郎も出演した、82年12月のコーネリアス・カーデュー追悼ライブは、それらのメンバーが一堂に会し、ひとつのシンボルとなったかもしれません」

 

81年頃

どっちつかずの私の音楽を浩一郎は評価してくれた

――その後何か、変化のようなものはありましたか? その頃、小山さんは、KORGのポリフォニックシンセイサイザーや4トラックの多重録音レコーダーを買って1人で録音を始めた、とCD『記憶の運河』(2012年)のライナーノーツにありますね。

※編集部注 小山景子が85~90年に録音した楽曲集。 94年に〈小山景子/きつねのよめいり〉名義のLP『記憶の水の運河』としてリリースされ、2012年にボーナストラックを追加して『記憶の運河』としてCD化された

「はい、まさにそのシンセサイザーを使って作ったデモテープが、現在リイシューされている『記憶の運河』に収録されている多くの曲の最初のバージョンです。そのデモテープを聴いて、浩一郎が、私の周囲でも一番、褒めて認めてくれました。

小山景子の2012年作『記憶の運河』収録曲“黒い涙”“Reckless Love”

当時、私はプログレとニューウェイブを混ぜたようなことをやっていて、そんな様式は世の中に無かったので、認めてくれる人は、あまり居ませんでした。どっちつかずのコウモリさんのような存在でしたが、前例にとらわれることなく評価してくれたのが、浩一郎をはじめごく一部の友人でした。ジャンルにこだわらず様々な音楽を聴いている人達だったからだと思います。

みんな20歳から25歳くらいだったので、少しずつ成長し、83年になると、やや組織的な、大きな動きも出てきました。83年の夏には〈天注〉の2回目と3回目もあり、10月には〈反日アンデパンダン〉が開催され、12月には竹田さんに連れられて京大西部講堂に行き、私は浩一郎のバイオリンとデュオで“再びのバビロン”と“コラル”を演奏しました。

83年12月31日、京都大学西部講堂での小山景子+渡邉浩一郎のパフォーマンス

彼は自分の好きなことや曲想にストレートで、自分のやりたいことを、自分と相性の良い人に、うまく伝えることが出来たと思う。一方で、京都時代の堀田氏のような、相方として最高の相手を、東京ではあまり見つけられていなかったように思います。冬里氏がわりと近かったとは思いますが」

※編集部注 83年10月23日、東京・町田の和光大学で開催されたイベント。A-Musik、Ché-SHIZU、ミントチョコレート(工藤冬里ら)、ジョン・ダンカンなどが出演。カセットブックも制作された

――渡邉さんは韓国に興味を持っていたと聞いています。

「あの頃は今と違って、韓国は文化的に隔たりのある国であり、浩一郎はそういう異郷に関心を持つところがあったと思います。韓国語を独学で勉強して、84年には、景子さんの“コラル”を翻訳したから、ぜひ韓国語で歌ってほしい、と言っていました。ネットのない時代なので、韓国の流行歌などもレコードで入手して研究していたと思います」