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生祥樂隊
(左から)福島紀明、大竹研、林生祥、鍾永豐、早川徹、吳政君、黃博裕
 

僕らが東京中央線になるまで

――まずは改めて、インストバンドの東京中央線について訊きたいのですが、バンド名の由来について教えていただけますか?

大竹研(ギター)「2013年くらいのことだと思いますが、僕と早川くんのデュオで、台北でライブをやったんですよ。早川くんは中央線ジャズの代表的ミュージシャン、古澤良治郎さん(2011年に逝去)と一緒に演奏していたというバックグラウンドを持っている人なので、台北で演奏するとき〈早川くんがこれまでに演奏してきた曲とか、縁がある曲、ずっと聴いてきた曲をやれたらいいよね〉という話をしてたんです。それで、ライブのタイトルを〈東京中央線〉にしたんですけど、台湾の人がバンド名だと勘違いして、期せずしてあだ名がついてしまったという。

だけど、東京中央線シーンのジャズミュージシャンは素晴らしい人がたくさんいますし、そのようなバンド名を名乗るのはおこがましいとずっと思ってたんです。福島さんを交えた3人で演奏するようになり、作品を作ったときに、(正式に)アーティスト名が必要になったので〈みんな、これで認識しているし、東京中央線にしちゃおっか〉となったんです」

――それはおもしろいですね! 台湾で結成されたということもあり、拠点はやはり台湾なんですか?

大竹「そうですね、演奏もレコーディングもたくさんしてますから。東京だと高円寺のJIROKICHIや新宿ピットインでもやりましたし、日本でもたまにやってますね」

――東京中央線の結成も、元をたどれば大竹さんが台湾で林生祥氏と一緒に音楽活動をするようになったところから始まっているのかと思います。林氏と出会い、一緒に音楽を作るようになった経緯について、詳しく教えていただけますか?

大竹「僕は2002年から2005年まで平安隆さんという、喜納昌吉&チャンプルーズにも在籍していた沖縄の唄者と一緒に音楽をやっていたんです。平安さんはボブ・ブロズマン(Bob Brozman)というアメリカのスライドギターを弾くブルースギタリストと一緒に世界中で演奏していて、アルバムも2枚出してました。当時は『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(99年)が公開されて、ワールドミュージックが盛り上がっていた頃なので、世界各地でフェスがあったんですよね。2003年に、台湾のワールドミュージックのフェスから平安さんに出演オファーが来て、ボブさんの代わりに僕を連れて行ってくれたんです。

平安隆と大竹研のライブ映像
 

そのときのフェスのオーガナイザーが〈Trees Music〉という音楽レーベルもやっている会社で、当時、林生祥はそこから作品をリリースしていたので、ステージで生祥と共演することになって、それが最初の出会いですね。2005年にTrees Musicの計らいもあって、ドイツの〈Rudolstadt-Festival〉というフォークミュージックのフェスに、平安さんと僕で参加することになり、行ってみたら、生祥もいたんですね。〈それなら一緒に演奏しよう〉ということになり。その頃の生祥はバンド、Water3として『臨暗(Getting Dark)』(2004年)というアルバムを出したばかりだったので、Water3と平安さんが一緒にジャムるような形でライブをしたんです。

その後、何があったのかWater3は解散し、生祥から〈カリフォルニアのUCバークレーでライブがあるんだけど、隆と研も一緒に演奏しませんか?〉とオファーがあったんです。そこから2か月に1回くらいサポートギタリストとして呼んでくれるようになり、2006年の『種樹(Planting Trees)』の制作に参加して以来、ずっと一緒にやってますね」

林生祥と大竹研、早川徹による“種樹”のパフォーマンス映像
 

――そこに早川さんはどう加わったんですか?

大竹「2009年に、僕が『似曾至此(I Must Have Been There)』というアルバムを作ったんですけど、そこでベーシストが必要になり、大学時代からよく知っている早川くんに来てもらいました。そのときは僕のアルバムのレコーディングに参加しに来てたんですけど、ちょうど生祥が次のアルバム『大地書房』のデモを録っていたので、早川くんに参加してもらったら生祥も早川くんのことをすごく気に入って、そこから一緒に演奏するようになりました」

――なるほど。大竹さんと早川さんは大学ではどのような関係だったんですか?

早川徹(ベース)「サークルは違ったんですけど、たまに一緒に演奏はしていましたね」

――その頃はお互いどういう印象だったんですか?

早川「めっちゃ怖かったですよ(笑)。サークルなので、ときには恋愛もあったり、みんなで楽しく青春しているじゃないですか、基本的には。そんななかにも何人か吊り目の本気の人たちがいるんですよね。〈この人は本当に音楽をやっていくんだな〉って顔をした人たちのなかの1人でしたよ、大竹さんは」

大竹「僕が3年のときに早川くんが1年で入ってきたんですよ。もう、はじめから話題の人でしたね。早川くんが〈ラテン研究会〉、僕は〈軽音楽部〉でサークルは違ったんですけど、〈ラテン研にすごいのが入ってきた〉と言われてました。そもそも大学が小さいから、片手で数えられるくらいしか音楽サークルがないんですよね。だから、みんな友達なんです」

――早川さんは大学時代、プロを目指してやってましたか?

早川「完全に目指してました。就職活動とかもしなかったし。もともと大学もそんなに行きたいと思ってなかったんですけど、親にすごく説得されて〈行くは行くけど……〉となって(笑)。授業も嫌だったから最初の2年で全部単位を取って、残りの2年は授業に一切出ないという方式……。ひどいですよね(笑)」

――ちゃんと単位を取って卒業したのならすごいと思います(笑)。大竹さんからみて早川さんの凄さってマルチプレイヤー的な意味もあるんですか?

大竹「ベースはもちろん、鍵盤もできますからね。たまに〈なんでそんなにいろんなことができるの?〉って人がいるじゃないですか。それが早川くんですね。僕は基本的にギターしか弾けないし、やらないし、全然違うんです。それはお互い良かったんだと勝手に思ってます」

――お二人の音楽的バックグラウンドについても教えてください。小さい頃から何か楽器を弾いたりされていましたか?

早川「小さい頃からピアノのレッスンを受けてました。最初はあんまり好きじゃなくて、〈習い事〉という感じで、親から言われてやってました。小学校に上がってから、ビリー・ジョエルとかポップスが好きになって、〈ピアノかっこいいな〉と思うようになって。それでやりたいことがはっきりしてからは、レッスンよりも自分で音楽を研究するようになりました」

――ベーシックはやはりピアノなんですね。

早川「そうですね、脳みそがそうなってるというか、思考が鍵盤ですね」

――ベースはいつ頃から始めたんですか?

早川「高校くらいだったと思いますね、質屋さんで安いベースを買って」

――大竹さんはやはり最初からギター一筋でしょうか?

大竹「僕も小さい頃は親のすすめでピアノを習っていたんですけど、全然上手くならなかったですね(笑)。けど音楽はずっと好きだったんですよ。それで、思春期に入って、周りの友達も長渕剛とかサザンとか、音楽を聴き始めて。僕は中学のときにBOØWYがすごく好きになって〈ギターをやりたい〉と思った。受験を終え、高校からギターを始めたんです」

――本日、福島さん(ドラムス)は途中からの参加となっているので、まだいらっしゃっていませんが、福島さんはどういった経緯でお二方に合流したんですか?

早川「さっきも名前が出た、古澤良治郎さんというジャズドラマーがいて、僕と福島さんはそのボーヤ(ローディー)の仕事をしていたんです。古澤さんは若手と演奏するのが好きで、チャンスを与えてくれる人だったので、福島さんはボーヤをやりながら、古澤さんのバンド〈ね.〉でドラムを叩いていたんです。

僕は大学時代、〈音楽業界に入るにはどうすればいいのか〉って話を友達としていて、伝統的にプロで活躍している人のボーヤになって人脈を広げていくものだということを知り、古澤さんのもとでボーヤとして働き始めました。古澤さんはドラマーだったので、基本的にはドラマーのお弟子さんが多くて、僕はベーシストということで珍しく、比較的早い段階で〈ベースを持ってこいよ〉という話になって、ね.でベースを弾かせてもらえることになったんです。そこに福島さんもいて、月に1〜2回一緒にライブをやってました。

そこから10数年一緒にやっていたので、付き合いは本当に長いです。台湾で活動を始める前も、東京でジャズ系の伴奏の仕事とかも一緒にやってましたし、苦労を分かち合うじゃないですけど、戦友みたいな感じですね。

僕が台湾に行き始めた頃は、福島さんはまだ東京でやってたんですけど、台湾の話をよくしてました。で、台湾で大竹さんとインストジャズのライブを何度かやり、〈ドラムが欲しいね〉という話になり、福島さんを呼んだわけです。東京中央線としてトリオで演奏するようになったあと、生祥もアルバム『我庄(I-Village)』(2013年)をリリースしてからは、音楽的にもよりロックに傾倒していき、ライブもフルバンドで行うようになった。そこでドラムが必要になり、福島さんが参加するようになったんです」

 古澤良治郎(左)のボーヤをしていた頃の福島紀明(中央)と早川徹(右)