言葉から遠いというか、言葉が届かないような音楽があって、そういった音楽はつねにすでに言葉の埒外にありつづける。

たとえば、このんミィとゆめであいましょうのスプリット・シングルについて、山田光がいうところのtiny popという潮流のようなものを必要かつ十分に語り切る2つの優れた曲、というふうになんとなく説明することもできる。なにかそういったムーヴメントやジャンルらしきものが、あたかもそこにあるかのように。だが、(もちろん冷や水を浴びせるわけではないが)そういった言葉はいつか陳腐に、形骸化したものになってしまうような可能性の種を、いつでも抱えている。

んミィの“ひかりのうた”は、短い詞を男声と女声がユニゾンで歌うパートと、山田のサキソフォンや佐藤ゆかのクラリネットが繊細に重なりあうパートと、ごくシンプルな2つの部分からなっている。また、inochiとyumboの皆木大知がギタリストとして参加しているこの曲は、2014年にBandcampで発表されている『Stoned To Death』に収められているものとは異なっていて、コンピレーション『慕情 in da tracks』に収められたヴァージョンである、ということも記しておくべきだろう。

一方のゆめであいましょうによる“おだやかに ひそやかに”は、ニューミュージックと昭和(アイドル)歌謡、(日本語でいうところの音楽ジャンルである)フォーク、あるいはサイケデリック・フォークがなめらかに溶け合っているかのようだ。その独特の発声やメロディー、詞からは、失われた過去への、ありもしないノスタルジーの霧が濃く立ち込めてくる。これも“ひかりのうた”と同様に、男声と女声の2声によるヴォーカルであるところに注目したい。

そんなふうに、言葉でなにかをいってみせることはできる。だが、どうしてもこの2つの曲には言葉が届かない気がしてならない。“ひかりのうた”を聴いていると、安っぽい言葉を使ってしまえば、なにか〈永遠〉のようなものがそこに刻まれているように感じられるし、“おだやかに ひそやかに”には浮世離れした彼岸の空気感が横溢している。

デモ・テープのような、かすみがかった音の像や未完成な質感。いまにも壊れそうな繊細な歌声と、清廉なメロディー。この2曲は、まるで裸で泣き叫ぶ無垢な赤子のようであり、機械で編まれ漂白された真っ白いタオルのようであり、人の生活と営みが染みついた昭和40年代の集合住宅のようであり、綺麗に仕上げられなかった不格好な飴細工のようであり、ありえなかった過去の記憶とありえるかもしれない未来の情景のようである。

こうしたくだらないアナロジーや印象批評の届かない場所に、この2つの曲はいる。言葉でつかむ前に、歌やメロディー、音の像がアプリオリにそこにある。マスターピースやクラシックといった大仰な言葉で呼ばれる前に、いつでもそういった暴力的な磁場や構造から逃げ去っていくかのように、“ひかりのうた”と“おだやかに ひそやかに”は、ささやかかつひそやかに、ただそこにある。