ピアニストのフジコ・ヘミングが死去した。92歳だった。

フジコ・ヘミングの訃報は、彼女の公式サイトを通じて一般財団法人フジコ・ヘミング財団より発表された。〈ファンの皆様ならびに関係者の皆様へのご報告〉と題したコメントによれば、2024年3月の検査ですい臓がんと診断され療養を続けていたが、4月21日の未明に容態が急変したという。

フジコ・ヘミング本人および親族の遺志により、すでに葬儀は近親者のみで行われたとのこと。現在お別れ会を検討中とのことで、詳細などは後日発表されるという。

フジコ・ヘミング(本名:ゲオルギー・ヘミング・イングリット・フジコ)は、スウェーデン人の画家/建築家ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングとピアニストの大月投網子を両親に持ち、1932年12月5日にドイツのベルリンにて生まれた。

幼いころに日本へと帰国し、5歳から母の手ほどきでピアノを始め、10歳から父の友人であったピアニスト、レオニード・クロイツァーに師事。その後、青山学院高等部に在学中、わずか17歳でデビューコンサートを開催。東京音楽学校(現:東京藝術大学)へ進学するとNHK毎日コンクール(現:日本音楽コンクール)に入賞、文化放送音楽賞など多数の賞を受賞した。

大学卒業後は数多くの国内オーケストラと共演したのち、ベルリン国立音楽学校(現:ベルリン芸術大学)へと留学。同学校を卒業するとヨーロッパに在住し、演奏家としてのキャリアを積み重ねていった。

作曲家/指揮者のブルーノ・マデルナに才能を認めれたフジコ・ヘミングは、彼のソリストとして契約。しかし、リサイタル直前に風邪をこじらせて聴力を失うアクシデントに見舞われてしまう。失意の中でストックホルムへと移住した彼女は、耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を取得。以後はピアノ教師として働きながら、ヨーロッパ各地でコンサート活動を続けていく。

99年2月、NHKにて放送されたETV特集「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が大きな反響を生み、日本でも彼女の名が広く知られる。このドキュメンタリーは現在までに何度も再放送され、続編「フジコ、ふたたび〜コンサート in 奏楽堂」もオンエアされた。

99年8月にリリースされた最初のCD『奇蹟のカンパネラ』は、クラシック界において異例の大ヒットを記録。同作は日本ゴールドディスク大賞のクラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤーにも輝いた。

フジコ・ヘミング 『奇蹟のカンパネラ』 ビクター(1999)

以降も世界各国の著名なオーケストラと共演し続け、ソロでも伝統ある会場にてリサイタルを開催するなど、世界規模で活動の幅を広げていった。

その後、日本と世界の国々を結ぶ文化事業にも積極的に参加。また、アメリカ同時多発テロ、東日本大震災などの被災者を救済するのための寄付やチャリティーコンサートを行うなど、音楽を通じた様々な支援活動も欠かすことがなかった。

前述した財団の発表によれば、予定していたカーネギー・ホールや日本での公演をフジコ・ヘミング本人も楽しみにしていたという。彼女が奏でるピアノの音色を直接聴くことはもう叶わないが、名演が収められた作品などを通して、この先も〈魂のピアニスト〉の音楽は生き続けていくだろう。