盗むこと、交換すること、そして創造すること……。
アルゼンチンの若き映画作家に注目!

 優れた映画作家のデビュー作には、その後に彼/彼女が取り組むことになる主題や方法論上の原理めいたものが凝縮されることが多く、今後さらに名声を世界に馳せることになるであろう、アルゼンチンの若き映画作家マティアス・ピニェイロによる「盗まれた男」(2007年)もそうした記念碑的なデビュー作の一本に数えられるはずだ。ブエノスアイレスの国立映画大学を卒業した彼が大学の協力も得て撮り上げた同作は、当初、短篇の予定で撮影に臨んだものの、生まれ落ちつつある作品に内在する生理やリズムに従うことで、長篇へと拡張されることになった。ただし、同作から僕らが受ける印象は、室内楽的アンサンブルを思わせる肯定的な意味での“小品”であり、実際、今年のロカルノ国際映画祭でコンペティション部門に選出された最新作「フランスの王女」(2014年)に至るまでの彼のフィルモグラフィーは、その特筆すべき簡潔さや明晰さの証しであるかのように、91分という「盗まれた男」の上映時間を超えたためしがない。5時間半に及ぶ「昔のはじまり」で同映画祭のグランプリを得たフィリピンの映画作家ラヴ・ディアスは、授賞式の席であえてペドロ・コスタとマティアスの名を挙げ、彼らへの共感の念を表明したという。なるほど、ディアスの豪胆な〈大河ロマン〉に映画ならではの快感がはらまれることは確かだとしても、今やマティアス作品で奏でられる簡潔さや明晰さのほうにこそ、僕らは称賛すべき貴重さを感受し、あるいは、そうした貴重さは、1時間15分ほどの上映時間ですべてを語りきってみせたかつてのB級映画の系譜を不意に想起させることに由来するのかもしれない。

 周知の通り、まずは観客として主にアメリカ産B級映画の虜となり、実際に映画作りに乗り出す際にも、そうした映画を模範とする姿勢をあからさまに示したのが、ジャン=リュック・ゴダールらヌーヴェル・ヴァーグの作家たちであったことを思えば、マティアスの映画は広い意味でのポスト・ヌーヴェル・ヴァーグに位置づけられるだろう。もちろん、あらゆる先鋭的な映画作家にとってヌーヴェル・ヴァーグ以降の環境を生きることが必然であるわけだが、それでもあえてその点を強調したいのは、デビュー作でタイトルにまで掲げた〈盗み〉という主題や方法論にマティアスが忠実な映画作家であるからだ。ゴダール(「勝手にしやがれ」)やトリュフォー(「大人は判ってくれない」)が〈盗み〉を主題に据えた映画でデビューを果たしたことを想起しよう……。

 〈盗み〉がはらむ不穏な響きを敬遠したいなら、より穏当に〈流用〉や〈専有〉(appropriation)という言葉を使ってもいいし、マティアス自身、たとえば、街頭や博物館、書店、公園などで物語を展開させる「盗まれた男」において、(ヌーヴェル・ヴァーグにとってのパリのように?)現実のブエノスアイレスを流用した……といった説明を行う。そう、ゴダールが鮮やかにパリを盗んだように、マティアスはブエノスアイレスを盗み映画を撮った。さらに盗みの主題はより明確に物語のなかに埋めこまれる。これまでのマティアス作品のすべてで主役級を担う細身の女優マリア・ビジャールによって演じられるメルセデスは、ガイドや警備の役割を兼ねた博物館の職員でありながらもボーイフレンドと共謀して展示物を盗んでは売りさばき、代わりに模造品を置くという悪事に手を染めている。とはいえ、同作は犯罪映画ではないのであって、これも、ジャン=ポール・ベルモンドが映画の冒頭で自動車を盗み、警官を撃ち殺したとしても、「勝手にしやがれ」が犯罪映画である以上に不可能な愛を描く映画であったことを思わせる。実際、「盗まれた男」において僕らが目撃することになるのは、メルセデスが美術品の窃盗や売買以上に情熱を傾ける、ある意味、不毛な計略であり、それは女友達の恋人を(結果的にであれ)盗むことである。相手に心を盗まれることで僕らは恋に落ち、また意中の相手の心を盗むことで恋を成就させる……といったところで陳腐な物言いにすぎないが、しかし、その陳腐さに正面から取り組み、映画にしてみせる姿勢にこそマティアスの勇敢さを認めるべきで、そうした姿勢がルビッチやホークスといったハリウッドのロマンティック・コメディの名手への彼のリスペクトにつながるのだ。

 盗みは犯罪である以上に愛の創造=偽造であり、さらには交換である。メルセデスらの行為が犯罪に見えないのは、美術品を自分のものとすることを望まず、無雑作に金と交換するからではないか。それでも盗みであるには違いないが、この映画が僕らに告げるのは、盗み=交換の仮説であり、彼らは本物と模造品を交換する行為に勤しむだけなのだ。そもそも結局のところ、博物館とは古今東西の盗品の集積庫ではあるまいか……。こうして、本物/贋物をめぐる主題が盗み=交換に関わるかたちで浮上するが、これもマティアスのあらゆる映画に散りばめられる。ともあれ「盗まれた男」は、男女がそれぞれの恋人を交換するプロセスを描く映画でもあり、恋人を盗むこととは恋人を交換することに他ならない。そして交換(本物と贋物の区別の無化)とは、とにもかくにも価値の創造であるだろう。あなたがある美術品に一定の金額を払うのは、相応の価値があると信じるからで、売る側にしても同様である。創作(価値の創造)が盗み=交換の賜物であることへの自己言及であるかのように、マティアス作品は盗み=交換の主題に貫かれるのだ。同作と第2作の「みんな嘘つき」(2009年)でしきりに参照されるのは、アルゼンチンの大統領も務めた作家サルミエントだが、「盗まれた男」は彼の著作「ファクンド――文明と野蛮」に着想を得たとされる。着想を得たとは、そこから盗むことで映画が作られたことを意味し、〈文明〉(創作)はつねに〈野蛮〉(盗み)とセットで語られねばならない。物語の後半でメルセデスは恋人に別れを告げる女友達の手紙を(もちろん彼女に内緒で、しかも別の女性の助けを借りて!)偽造するが、その手紙自体、書物からの引用で成り立ち、署名さえも差出人であるべき女友達から巧妙に盗み取られるのだ。

マティアス・ピニェイロ監督の2009年作「みんな嘘つき」トレイラー