COLUMN

統御と調和から逃れて〈かたちからこぼれる〉もの―コンサート〈作曲家の個展〉控える作曲家・原田敬子の世界

原田敬子写真/Photo by Andreas Hussong

 

原田敬子の肖像
三善⇒ファーニホウ⇒クルターグ

 原田敬子はどんな作曲家だろう? 彼女の作曲の師はまず川井学。クラシック音楽の伝統から武満徹三善晃の音の響かせ方まで知り抜いた人。しかし原田はそういう書法を活用するだけでは満足できなかった。そのとき原田の背中を押した師匠はきっと三善晃。三善はルーティーンや予定調和を嫌った。物分かりのよい大人にならなかった。少年のときの戦争体験が彼を傷つけた。よく出来ているもっともらしいものへの不信感を抱いた。弱い者、傷ついた者、死んだ者のうめきや怒りやわだかまりを、常に定型にはまらない音のかたちで表現しようとした。その志を原田は受け継いでいる。

 とはいえ三善だと、そのかたちにならなさは、動機の無限変容というか、ギリギリまだ古典的書式に回収できる範疇で行われる。でも原田はもっと先に行きたがる。理屈での分析を拒むノイズの領域をいっぱいに使おうとする。微分音もくりだす。特殊奏法をふんだんに用いる。倍音に耳を傾ける。残響に身を委ねる。遅さと速さ、弱さと強さの極端な振り幅も駆使する。そういう音楽を緻密に作り上げようとしたら楽譜はとてつもなく複雑になる。複雑な楽譜と言えばファーニホウ。これ以上ややこしくできないというくらいすべてを書き尽くす人。原田の次なる師匠。

 が、ファーニホウは美学的にはあくまでシェーンベルクの続きの人だ。複雑多様な要素を極限的理性で統御しようとする。原田は違う。言わば過激三善主義者。かたちからこぼれるのがいい。大人の理屈は退けたい。アナーキーなのがいい。断片的なのがいい。それが真の音楽と思い詰めている。その段階で最後の仕上げのように出てくる師匠がクルターグ。このハンガリーの自由人は虚空に投げられてそのまま消えるかのような短い断片を作ることにしか興味がない。全体を統御し調和させられると思うな。こうして原田敬子のできあがり。乱暴に言えば。

 そんな原田だから、オーケストラの個展といっても、シンフォニックな発想を期待してはいけない。オーケストラは、あくまでバラバラの個人が呼び交わすものと扱われる。拡張された室内楽と思えばいい。それが微分音やノイズもふんだんに使って、まとまりを否定したミクロのドラマを繰り広げる。しかも極端三善主義者としての弱き者や傷ついた者とつながろうとする情念がたちこめる。

 もっともらしい音楽を虚偽だと感じたそのとき、あなたは原田敬子のアンバランス・ゾーンにとらわれ、サントリーホールからどこかへ飛翔するだろう。

【参考動画】アジアン・アート・アンサンブルによる原田敬子作曲の〈The 5th Season II〉

 

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