暴力や死といった題材を、激しくも詩的な舞台へと昇華するスペインの鬼才アンジェリカ・リデルと、コンセプチュアルアートシアター『印象派』シリーズを通じ、自らの表現を探求し続ける夏木マリの対談が実現。二人が演劇に求めるもの、舞台に結実する「美しさ」の源泉とは――。

 

 

夏木マリ リデルさんの『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』を映像で拝見したんですが、美しくて、暴力的で、破壊的で……とても好きな世界でした。作中では殺人や死もモチーフとして扱われていますが、リデルさんご自身はいったいどんな女の子だったんですか?

アンジェリカ・リデル 私自身はバルセロナ生まれですが、母は文字も読めないような田舎の農家の出身です。また、父は軍人で、18歳までは私も基地の近くに暮らしていました。ですから、何か美しいものに囲まれて生活したことはないんです。無知や暴力に囲まれて育ちました。でも今はそういったものも全部、自分の中に取り入れ、美しいものとして変換し、表現しているのだと思います。幼いころには特に、たくさんの本を読んで、自分自身にとっての美しいものを探り出しました。6、7歳のときにはもう詩を書いていましたが、両親にとっては、そんな子どもは怪物に見えたんでしょうね。ずっと「ちょっとおかしい子」として扱われていました。

夏木 『地上に広がる大空』には『ピーターパン』のヒロイン、ウェンディが登場しますね。実は私も赤ずきんやシンデレラといった童話を題材にした「印象派」という作品を続けて創っているんです。童話って、こどものころ読み聞かせられたときの印象と、今になって読む印象とがすごく違う。どのお話もだんだんと「暗黒」の物語にも見えてきて、それが作品のテーマにもつながっていきました。リデルさんがこの作品で、ウェンディをモチーフにしようと思われたのはどうしてですか?

リデル 青春を喪失してしまったと感じているからだと思います。「ピーターパン症候群」という言葉は、大人になれない人のことを指しますが、「ウェンディ症候群」は、みんなに愛されたいと願い、そのために母親のようにふるまうんだけれど、実は皆からは見捨てられてしまっている、そんな状況にある人のことを言います。青春時代が過ぎ、大人になっても、結局はウェンディのように、人のために一生懸命に働き、それでも愛してもらえない、そんな状況が続くんじゃないかという、自分自身の不安からこの作品は生まれました。

夏木 年老いた男女が踊るワルツや賛美歌……舞台ではいろいろな音楽が使われていますが、普段のリデルさんはどんな音を聴いていますか?

リデル バロックかルネサンスの音楽ですね。パレストリーナモンテヴェルディバッハあたりまで。現代の宗教音楽も聴きます。現代の人間たちは「神聖さ」を忘れてしまい、神を人間扱いしてしまっていると思います。でも、こういう音楽を聴いていると、日常生活とは異なる、私たちを見下ろす世界について想像することができます。私はまだ、神が死んだとは思っていません。

夏木 ロックやブルースは聴かない?

リデル ロックは嫌いです。でも愛の歌は好きですし、そういうポップソングは聴きます。トリュフォーの映画にも、ラヴ・ソングを聴いている女の子が出てきて「どうして聴くの?」と問いかけられる場面がありますが、その答えは「愛の音楽はいつも本当のことを言っているから」。だから私も、ラヴ・ソングを聴いています。

夏木 今日はワークショップの見学もさせていただいたんですが、そこでも聖書の「創世記」を引用されていましたね。リデルさんの創作にとって、宗教はやはり、大きな存在なんですね。

リデル 聖書は私の教育のベースになった、とても美しいものです。子どものころには聖書がイマジネーションの源泉でした。「創世記」の中心には神の怒りがあり、それはとても自分に合ったテーマだとも感じています。また、アブラハムとイサクの親子の物語も好きです。神に息子を生贄にするように言われ、そのまま実行しようとするアブラハムの純粋な信仰心に惹かれるんです。犠牲的な行為は、演劇に通じるものでもありますし……そもそも、「創世記」は、どのようなプロセスで世界ができあがっていくかを描いたもので、その始まりは暗闇です。暗闇には何もなく、苦痛さえない。そのことに、とても興味があります。

夏木 ワークショップでは、皆が疲れ果てるまで動いて自分のエネルギーを解放していく姿を見ることができ、共通言語を見つけたような嬉しさも感じました。もともと私は売れない歌手で、自分で自分が分からなくなっていた時に、誘われるがままに演劇の世界に入りました。それで、いろんな演出家と仕事をしているうちに、「ひょっとして演劇って、私をスポーツ選手のように美しくしてくれるんじゃないかな」と思うようになったんです。毎回、崖の上に連れて行かれて「ここから飛び降りろ」って言われる。演技の才能はないんだけど、何度も飛び降りているうちに、なんだかすごく美しくなれる気がして……。

リデル 演劇って地獄みたいなものですよね。私たちは物事の表面しか見ていませんが、その下には隠されたものとしての地獄がある。私たちの欲望や願望はそこにこそあるんです。

夏木 確かに「地獄」というのも分からなくはないですね(笑)。自分のワークショップでもよく言うんだけど、人間ってみんな、日常生活では世間と折り合いをつけて生きているんですよね。でも舞台上では本能のままでいるのがいいんです。経験がない人たちは、つい、舞台にあがると何かシチュエーションをつくって芝居をしてしまう。でも、舞台上で自分自身であり続けることがどんなに大変で、楽しいことか。私は、舞台に立つ人たちみんなでそのことを共有していきたいと思っているし、自分自身も、それを繰り返しつつ、「絶望」からの脱出を図っているところなんです。

リデル あぁ、どうやら私たちは同じことをやっているようですね。仮面をかぶるのではなく、仮面を脱ぐことが演劇で、そこでは人間の弱さが表現されるのだと思います。マリさんと同じ「絶望」という言葉で表現はしないにせよ、演劇という行動によって、ある種の毒が外に出されていくという感覚は私も持っていますし、それが私にとっての演劇です。

夏木 作品には自分が出てしまいますよね。だからこそ最近は、以前よりももっと自分を破壊的に、創造的にしていかなければ、という想いも強くしています。そういう意味では若い時よりもずっと自分に興味を持っている。いくつになっても成長しない自分が、創作の源泉ともいえるかな。

リデル よく分かります。私の中には常に「喪失した」という感覚があるんです。そしてもやもやとした「疑い」をいつも胸に抱いてもいる。私はその喪失感や疑惑を、作品をつくることによって理解していきたいんですよね。実際に舞台にのるのが、私の中の混沌の、ほんの一部分だとしても。

 

Angelica Liddell(アンジェリカ・リデル

作家、演出家、俳優。1966年スペイン生まれ。1993年にグメルシンド・プチェと共にアトラ・ビリス・テアトロを設立。個人の意識や魂の奥底を見つめ、性、死、暴力、権力、狂気、宗教にひそむ人間の深部から人間や社会をとらえる作品を作り続けている。作家、演出家であると同時に、俳優として自身の作品に出演し、強烈な印象を残している。

 

夏木マリ(Mari Natsuki)

プレイヤー・ディレクター。1973年歌手デビュー。80年代から演劇にも活動の場を広げ、93年からコンセプチュアルアートシアター「印象派」で、身体能力を極めた芸術表現を確立。2009年、パフォーマンス集団MNTマリ ナツキ テロワール)を立上げ主宰。ワークショップを通じて後進の指導にも力を入れている。11/19(木)文化奉納として清水寺「経堂」にてパフォーマンス・ライブ『PLAY×PRAY』を開催予定。

 

F/T フェスティバル/トーキョー15
演劇×ダンス×美術×音楽…に出会う37日間
○10/31(土)~12/6(日) 
www.festival-tokyo.jp/

第8回となるF/T15は、「融解する境界」をテーマとし、国内外から集結する同時代の舞台作品の上演を中心に、シンポジウム、各作品に関連した映像上映、トーク、講座など多彩なプログラムを展開。

主催プログラムでは、岡田利規多田淳之介ら日本の舞台芸術シーンを牽引する演出家たちによる国境を越えたパートナーシップに基づく共同製作や、地点と空間現代によるコラボレーションなど演劇と音楽が強く結びついた舞台作品、そしてプロジェクトFUKUSHIMA!や、飴屋法水の『ブルーシート』など東日本大震災の経験を経て生みだされた表現に目を向けている。また、昨年に続き、異なる分野で活躍するアーティストがコラボレーションする新作として、ゾンビオペラ『死の舞踏』を製作する。海外からはアンジェリカ・リデルのほか、ヨ一ロッパの舞台芸術をリードする名門・パリ市立劇場や、世界の舞台芸術シーンで大きな存在感を放つカンパニ一、アーティストを招聘。また、アジア地域から1カ国を選び特集する「アジアシリーズ」の第2弾では、急速な社会変化が進むミャンマーから3組のアーテイス卜を紹介する。


 『地上に広がる大空(ウェンディ・シンドローム)』
作・演出・美術・衣裳:アンジェリカ・リデル(アトラ・ビリス・テアトロ)
○11/21(土)~23 (月・祝)
会場:東京芸術劇場 プレイハウス

ネバーランド=ウトヤ島。
ユートピアと殺戮の島をつなぐ、魂の詩(モノローグ)

今回が日本初演となる本作の主人公は『ピーターパン』のヒロイン、ウェンディ。ネバーランドと多くの若者が死んだ銃乱射事件(2011年)の現場ウトヤ島、年老いた男女が路上でワルツを踊る上海――3つの場所をめぐりつつ描かれるのは、少女でありながらピーターパンの「母親」を演じ続ける彼女の混乱と孤独。若さが失われる恐怖、母性神話への憎悪……それらはやがて、リデル自身が演じるウェンディの怒濤のモノローグとなる。