神々しさ漂う歌声と、幾つもの楽器が重なる雄大なサウンドスケープで〈日本のフリート・フォクシーズ〉と称されてきたROTH BART BARONが、セカンド・アルバム『ATOM』をリリースした。今作は、カナダはモントリオールにある、ゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラーのマウロ・ペッツェントが所有するスタジオ=ホテル2タンゴで大半を録音。ブロークン・ソーシャル・シーンやアーケード・ファイアの諸作でも知られるヴァイオリニスト、ジェシカ・モスを筆頭に、同スタジオ界隈の多くのミュージシャンがストリングスやホーンなどで貢献している。これまでのROTH BART BARONが追及してきた現代アメリカーナに通じる多層的なアンサンブルはさらにきめ細かく、カナディアン・インディー特有の青い疾走感やスペーシーな浮遊感が加わったサウンドはますますパワフルに。代名詞と言うべき壮大なスケール感広がるバラッドはもちろん、ノイジーなロック・アンセムや快活なポップ・ナンバーまで楽曲のヴァラエティも増した『ATOM』で、バンドはいっそう高く遠くへと羽ばたいている。
また、さまざまな表情を見せる楽曲に合わせるかのように、歌詞の面でもより複雑で立体的な世界の描写へと向かった。前作『ロットバルトバロンの氷河期』でメイン・ストーリーとなっていたのは、雪に閉ざされたディストピア的世界における子供たちの蜂起。それは2015年のいま振り返ると、実に預言書めいていたことは書き留めておこう。一方、今作で描かれるのは、どうしようもなく動いていく世界へと直面しながら、ひたすらに傍観者として暮らし続ける人々や、自らの栄華が終わっていくことをじっくりと噛みしめる権力者といった、革命の熱気の外側にいる登場人物。その意味で『ATOM』は〈氷河期〉で語り切れなかった幾つもの物語へと、あらためて光を当てた連作集のようでもある。現在の世界を映しだしつつ、ファンタジックなリアル・フィクションへと昇華させた今作について、ヴォーカリストである三船雅也に話を訊いた。
日本で何万枚ってセールスじゃなくても、僕らを好きな人が東京で何百人、アメリカで何百人、ドイツで何百人ってのができればいいなって
――前作『ロットバルトバロンの氷河期』のツアーはとにかくたくさん周っていた印象でした。普通は中心の一か所にするような地方でも、西に東に連日行ったり来たりして。
「前作では、CDだけじゃなく後発のアナログ盤でもツアーをしました。それは前作を録ったフィラデルフィアでの経験も影響してて。向こうのエンジニアが言ってたんですけど〈アメリカのミュージシャンはものすごい本数のツアーを周るのが当たり前なんだ〉と。バンドのツアー専用のレンタカー会社とかもあって、ビジネスとして成り立ってるんですよ。オプションでプレイステーションがつきますとか(笑)。だから向こうのそういうのが当たり前の環境と比べて、僕らは日本国内でも全然ツアーできてないなって」
――ただ、実際にハードに回っていくことは、スケジュール管理やライヴハウスのブッキングはもちろん、経費的にも体力的にも大変じゃなかったでしょうか?
「東名阪で終わっちゃうのはつまらないなって思った時に、札幌のライヴ・ハウスから出演のオファーがあったり、ドイツのバンドが来るから前座しないかって話があったり、そういう誘いをもらえるようになったんです。だから、いろいろ行ける機会も増えたし、〈ライヴハウスはそこらじゅうにあるし、回れるところはたくさんあるな〉と思って。さっき亮太さんが言ってくれたように、無理なスケジュールもあったかもしれないし、もっと賢い考え方だったら、ここは地域が近いから一本に絞ったほうがお客さんばらけなくていいって計算もあるんでしょうけど、僕らはあんまりそういうことは考えないで、回れるところは回ったほうがいいんじゃないかって。その賢さの行きつく先が東名阪だけってことなのかもしれないですけど、なんかそれは自分のマインドと違うなと思ったんですよね。そうなると一個一個丁寧にいろんな人たちと出会っていったほうがバンドの財産になるなと思ってて。それは成功とまではいかないかもしれないし、ビジネス的に言ったら失敗なのかもしれないですけど、そこで得たものはすごく大きくて」
――日本だけでなく、去年10月には北米ツアーもされてました。
「ニューヨークの〈CMJ・ミュージック・マラソン2014〉って〈サウス・バイ・サウス・ウェスト〉の東アメリカ版みたいなのに出ようってなったのをきっかけに、7、8都市回りました。向こうには都会じゃなくてもひとつひとつの街にレコード・ショップがありライヴハウスがあって。ライヴをすると全然知らない日本人のバンドでも喜んでくれたり、そういう手応えみたいなものが〈氷河期〉のおかげで手に入れられたんです。たまに〈東京でトップにならなかったら意味がない〉って意見を聞いたりしますけど、そういうことじゃなくてひとつひとつの街が独立してそれぞれにバンド・シーンがあるわけで、その街のレコード屋で1位になってもいいし、日本で何万枚とか何万人とかってセールスじゃなくても、東京で僕らを好きな人が何百人、アメリカで何百人、ドイツで何百人ってのが全世界にあればいいなって思えるようになりました。向こうでそういうアイデアをもらえたんですよ」
――海外での話や経験と日本の実状を照らし合わせたうえで、もっと日本の音楽カルチャーがこうなればいいのになと思った点はありますか?
「たくさんあるようなないような、なんだろうな。うーん、いわゆる誰が言ったか知らないけれど東京インディー・シーンってのが2、3年はあって、僕たちもその流れのなかでいろいろな人に気づいてもらったところもあると思うんですけど、そういう人たちの多くはまだ日本でだけで音楽をやろうとしてるというか。インターネットがあってスマートフォンがあればすぐに届けることができるのに。でも、2000年代にブルックリンで起きたミュージック・シーンの人たちや、Pitchforkに牽引されつつ大きくなったインディーの連中は、当たり前に世界を向いて音楽をやったんですよね。そういう意味で言えば、タイやシンガポール、インドネシアの子たちのほうが、東京より断然モダンな子が多い気がします。 もっとフラットに国と国を飛び越えちゃう感覚を持ってますよね。正直、音楽や映画に関しては、日本はもう何年も遅れてしまったなあって」
――そうですね。海外のミュージシャンのライヴも、外国映画の上映も、日本の状況はアジアのなかでも後進になりつつあります。
「バンドマンと話してもあんまり世界の話にならんないんです。全員じゃないですけどね。バンドを始めたときから、ライヴハウス出るのも〈なんか馴染めないな、居心地悪いな〉って思いながら音楽やってきました。レコーディングするときも、なかなか共通の話題が見つからなくて。〈こういう音にしたいんだ〉って言ってもなかなか伝わらなかったり、そういう発想が元からなかったりするし。フィラデルフィアのブライアン・マクティアーや、今回のモントリオールのスタジオ・エンジニアはやっぱり〈やりたい〉って思ったサウンドを、一言えば十わかってくれる。そういう感覚が自分にとっては楽だったんです」
―― 自分は、日本のライヴハウスのノルマ・システムとか、お客さんへのホスピタリティーの薄さとか、もうちょっとなんとかならないかなって思ってしまう局面が多いんですよね。もちろん全部が全部そうじゃないですけど。ただ、ライヴを見るためだけのハコになってる状況があまりに多い気がして。
「そうそう。でも、みんな〈しょうがない〉って言う。ご飯のメニューもない場所が多いし。そのライヴを観に行くためだけじゃつまらないですよね。日常の選択肢の一つとして、平日に仕事が終わったてから、〈じゃあ行こうぜ〉とはならないし、始まるのも早いからそのライヴを見るためだけに、何か月も前から休みをとらなきゃいけないとか。しょうがないことがたくさんあってこうなっちゃってるってのはわかるんですけど、80年代とか90年代にできたライヴハウスのスタイルをいまだにやり続ける必要はないですよね」
――北米ツアーをされたなかで、印象的だったライヴハウスはありましたか?
「去年ライヴをしたブルックリンのシーンは、家賃がどんどん高くなっちゃって、いまの若いアーティストたちがだとなかなか中心部には住めなくなっちゃってるらしくて。ちょっと奥のブッシュウィックって街、ブラックの人たちが多く住んでる工業地帯にみんな移ってて。グリズリー・ベアーとかが出演していたブルックリンのハコも、どんどん立ち退きで潰されちゃってるんです。で、ブシュウィックに新しいライヴハウスでサイレント・バーンってところがあって、そこは倉庫を適当に改造しただけで音響も別に良くないんですけど、いまのイケてるインディー・バンドたちはみんなそこでやってました。3ドルくらいで入れて、横にミュージシャンがたまれるスタジオや、アーティストが共同展示しているアトリエもあって。飲み物もしょぼいんですよ、缶ビールだし、カウンターにはスタッフの女の子がちょっと作ったようなクッキーが置いてあったり(笑)。で、みんな外で凍えながら冷たいビール飲んで、アート・スクールのひねくれた子たちがパカパカ煙草吸いながらたむろしてて、外からも窓ガラス越しにライヴやってるのが見えちゃうみたいなところ。今後出てきそうなインディー・バンドたちが集まってきてる感じがしたし、そこの環境はすごいDIYムードに満ちてました。みんなこれがビジネスとして10年続くとは思ってないんだろうけど、新しいことをやろうって人たちがたくさんいて。そういうところが日本であったら楽しいですよね」