ALL EYEZ ON ME
[特集]2パックを再考する
伝説のラッパー? 誇り高き路上の闘士? 非道なディスの権化? 伝記映画の公開を機に、そんなに単純じゃないこの傑物の功績に改めて触れてみよう

★Pt.1 「オール・アイズ・オン・ミー」には2パックの複雑な人間味が溢れている

 


TUPAC BACK
不世出のラッパー、2パックの太く短い生涯を振り返る

 死を以てその名を永遠にしたラッパー、2パック。彼がこの世を去った96年9月13日から、21年以上もの時が経った。生前から毀誉褒貶の激しかった人だが、一時は毎年のようにリリースされていた死後作を重ねるにつれてイメージは多面的に拡散していき、2003年のドキュメンタリー映画「トゥパック:レザレクション」公開もポジティヴな見方に拍車を掛けるものだった。また、2015年にはケンドリック・ラマー“Mortal Man”における〈対話〉も脚光を浴びて、リアルタイムの活躍のみならず、死後リリースが〈現役感〉を繋ぎ止めていた時代すら知らない世代にとってもアイコンとして崇められるようになっている。このたび初の伝記映画「オール・アイズ・オン・ミー」が公開されたことで、多くの人が彼の生涯にまた違う側面から触れることができるはずだ。

 

若き表現者として

 2パックことトゥパック・アマル・シャクールは71年6月16日、NYのハーレム生まれ。母親のアフェニ・シャクールはかのブラック・パンサー党員であり、200以上もの罪状によって逮捕・投獄された経験もある闘士だった。実父のビリー・ガーランドもパンサー党員で、映画「オール・アイズ・オン・ミー」でも描かれているように、アフェニは妊娠期間を獄中で過ごしており、つまりパックは生まれる前から刑務所にいたというわけだ。出生時には報復を恐れてレサーン・パリッシュ・クルックスと名付けられたが、アフェニがムトゥル・シャクールと再婚したのに前後に改名したという。

 〈トゥパック・アマル〉とはケチュア語で〈高貴な龍〉という意味で、16世紀にスペインに滅ぼされたインカ帝国の最後の皇帝の名前であり、その末裔を自称して18世紀のペルーで反乱を起こした指導者の名前でもあった。80年代に組織された左翼武装組織のトゥパク・アマル革命運動は、奇しくも2パックの没年と同じ96年の12月にペルー日本大使公邸占拠事件を起こしており、その際の報道で日本でも有名になったことを記憶している人もいるだろうか。いずれにせよアフェニがそんな反骨の名を息子に授けた意図は言うまでもない。

 早くからニューヨーク・タイムス紙やネルソン・マンデラの著書を読むように躾けられたことが洞察力や知的好奇心を育み、後の表現基盤の形成に直結していった一方、母も継父も危険分子としてマークされていたこともあり、一家の生活は常に厳しかったそうだ。活動家の継父ムトゥルは不在も多く、アフェニはパンサー党を離脱して働きに出ていたものの、過去を知られるたびに職を失ったという。そんな暮らしの中で、詩や日記を綴っていた繊細で大人しいパック少年の〈表現〉への目覚めは早かった。熱心にTVの真似に興じる息子を見て、アフェニはハーレムの劇団に入団させる。パックは12歳で初舞台を踏み、後にスクリーンで花開く演技の才能はここで培われた。

 86年になると一家はボルティモアに移り住み(同じ年には継父ムトゥルが逮捕されている)、パックはボルティモア芸術学校に入学して演劇とバレエを学びはじめる。学生は「白人と裕福な有色人種ばかり」だったそうだが、シェイクスピアをはじめとする古典に触れ、別の人生だった」と述懐するほど彼の視野は大きく広がったようだ。そして、映画でも印象的に描かれている通り、生涯の親友となった女優のジェイダ・ピンケット(・スミス)と出会ったのもこの芸術学校であった。

 が、それでも生活は安定せず、88年には母の知人を頼ってカリフォルニア州はサンフランシスコ・ベイエリアのマリンシティへと移住。ブラック・パンサー結党の地=オークランドを擁するベイエリアはLAとはまた違う独自のヒップホップ・シーンを形成していた場所で、ボルティモア時代にMCニューヨークという名前でラップを始めていたパックも、友人のレイ・ラヴらとストリクトリー・ドープなるグループを組んで活動を始めることになった。そんな最中の89年に出会ったのが最初のマネージャーとなるレイラ・スタインバーグ。彼女は〈The Microphone Sessions〉というワークショップを開いて芸術を志す若者の支援活動を(現在も)行っている教育者であり、彼女の勧めで詩のサークルに参加したパックは詩才と共に人間的な魅力を発揮してすぐにサークルの人気者になったという(後に詩集「The Rose That Grew From Concrete」にまとめられるのは、この頃の詩作だ)。若いパックの才能を確信したレイラは、1か月後にストリクトリー・ドープのマネージャーとなっていた。

 そこで彼女を介して知り会ったのが、デジタル・アンダーグラウンド(以下DU)のマネージャーを務めるアトロン・グレゴリーだ。オークランドを拠点に奇才ショックGが率いたDUは、もともとパンサー的な意識の高さも併せ持ちながらPファンク的なユーモアとサウンドメイクを前面に出して人気を博し、当時トミー・ボーイとの契約を獲得したばかりの新進グループ。ストリクトリー・ドープはDUにコンタクトを取ってメンバーのチョップマスターJとデモを制作するのだが、ビートが出来上がると5分でリリックを書き上げ、凄まじい勢いで言葉を吐き出すパックの資質に周囲は舌を巻いたという(なお、そのセッションの成果は『Beginnings - The Lost Tapes: 1988-1991』で公式音源化されている)。そんなエネルギッシュな様子から、アトロンは2パックをDUに招き入れる。ただ、90年に加入してしばらくはローディー兼ダンサーというポジション。この時期のパックはDUの一員として来日公演にも参加している。

 

トラブルの中で

 しかしながらその才が見過ごされるはずもなく、91年1月に登場したDUのEP『This Is An EP Release』収録の“Same Song”で初めてヴァースを与えられたパックは、10月のアルバム『Sons Of The P』にもフィーチャー。並行してアトロン主宰のTNT経由でインタースコープとソロ契約を結び、11月には早くもファースト・アルバム『2Pacalypse Now』を発表している。後のドキュメンタリー「サグ・エンジェル」(2002年)には17歳のMCニューヨークによる〈女性や車も大好きだが、自分は社会問題に目を向けたい〉という発言が記録されている通り、ここではストリートに生きる黒人青年として問題が提起され、若き活動家としての側面に焦点が当てられている。新聞記事から着想を得たというファースト・シングル“Brenda's Got A Baby”は、親戚にレイプされて妊娠し、ゴミ箱に赤子を捨てるしかなかった貧しい少女の物語だ(悲痛なフックを歌うのは、後にソロ歌手として大成するデイヴ・ホリスターである)。

 その一方で映画界にもアプローチしていたパックは、92年1月に全米公開された映画「ジュース」で銀幕デビューを果たし、複雑な気性の青年ビショップを演じて高い評価を集めた。ただ、NWAのブレイク以降にヒップホップのリリックが若者への悪影響の根源として批判される機会が増え、前後して『2Pacalypse Now』に影響されたという殺人事件が起こったこともあり、パックは〈良識派〉から社会悪と見なされるようになっていく。

 とはいえ、俳優としては93年にジョン・シングルトン監督のジャネット・ジャクソン主演作「ポエティック・ジャスティス 愛するということ」で相手役に大抜擢され、翌94年に公開される青春映画「ビート・オブ・ダンク(Above The Rim)」にも起用されるなど大活躍。仕事でNYへの出入りが多くなったこの時期に知り合ったのが、まだ駆け出しだった頃のノトーリアスBIG(以下ビギー)らNYのラッパー勢だ。特にビギーはカリフォルニアを訪れるたびにパック宅のカウチに寝泊まりし、キャリアのバックアップを志願するほどパックに心酔していたそうだ。一方、NYでは裏社会で暗躍する実力者のハイチアン・ジャックと親交を深め、パックは「ビート・オブ・ダンク」で演じる役柄で彼を参考にするなど、ギャングスタ的な振る舞いに傾倒していたとも言われている。いずれにせよ、このことが後に大きなトラブルを引き起こすこととなったのは映画でも描かれている通りだ。

 ともかく、その過程で登場したセカンド・アルバム『Strictly 4 My N.I.G.G.A.Z.』(93年)はリリースから間を置かずに100万枚を突破し、パックはラッパーとしても大きく飛躍。享楽的なパーティー・シット“I Get Around”は全米11位まで浮上する一方で、もう1曲のヒット“Keep Ya Head Up”はシングルマザーをはじめとする女性たちに捧げた温かくソウルフルなナンバーとして、パックの人間味を現在に至るまで象徴し続ける曲となった。が、そんな右肩上がりのキャリアのなかでもパックは立て続けに揉め事を起こしては逮捕と保釈を繰り返し、世間の偏見に沿う方向へ自身の素行を改悪していく。その極め付けとなったのが、映画にも顛末が丸ごと描かれている、ファンの女性に性的強要をしたとして訴えられた93年11月の事件だ。

 諸々のトラブルを抱えながらも精力的に活動の範囲を広げたパックはサグ・ライフというグループを結成。当初はDU一派にいた親友のストレッチ(ライヴ・スクワッド)と構想を膨らませていたようだが、メンバーになったのはイーヴル・マインド・ギャングスタズの一員として知り合っていたイングルウッド出身のビッグ・サイク、LA出身のマカドーシスとレイテッドR、さらに継兄のモプリーム(ムトゥル・シャクールの息子)という顔ぶれ。その初作『Volume 1』もヒットを記録するなかで、パックと故郷のNYを切り裂く事件が起こる。

 94年、件のレイプ事件の公判2日前、ジミー・ヘンチマンの誘いで客演仕事のためにタイムズスクエアのスタジオを訪れたパックは、建物内で強盗に襲われ、5発の銃弾を浴びて瀕死の重傷を負ったのだ。が、パックは病院を抜け出して車椅子で予定通り裁判に出廷し、不死身ぶりをアピールした。結果的に性的侮辱罪のみに問われたパックは4年半の懲役刑に服することになるのだが、それ以上にパックの心を占めていたのは、彼が撃たれた際、その場に親友ビギーとその後見人であるバッド・ボーイ主宰者のショーン“パフィ”コムズがいて、襲撃を彼らが知っていたかのように感じたことだった。

 

時が果てるまで

 実状がどうだったかはさておき、獄中生活を通じてその疑念が膨らみ、精神が尖っていったことは想像に難くない(ビギーの“Who Shot Ya?”を耳にしたことも怒りに繋がったようだ)。95年4月には投獄前に録り終えていた傑作『Me Against The World』がキャリア初の全米チャート首位をマーク。当のパックは獄中で16世紀フィレンツェの政治家、マキャヴェリの著書「君主論」を読み耽っていた。彼がマキャヴェリに惚れ込んだのは、目的達成のためには手段を選ばないことだったという。ガールフレンドと獄中結婚したパックが夫人を通じてコンタクトを取ったのは、『Above The Rim』のサントラを出していたデス・ロウの代表、シュグ・ナイトであった。つまり、パックは手段を選ばなかったということか。

 折しもシュグはショーン“パフィ”コムズとの関係を悪化させている最中であり、実際にパフィの育ててきたジョデシィやメアリーJ・ブライジのマネージメントを手掛けようとしていた。そして、対バッド・ボーイ/ビギーの用心棒としてパックに白羽の矢を立てたのだろう。利害が一致した結果、パックはデス・ロウとアルバム3枚分の契約を結び、同年10月にシュグとジミー・アイオヴィン(当時のインタースコープ代表)が用立てた1,400万ドルの保釈金によって出獄。その日のうちにレコーディング・スタジオに直行し、ドクター・ドレーとのクラシック“California Love”を含むアルバム『All Eyez On Me』に取り掛かっている。

 そして翌96年、パックは駆け抜けた。ヒップホップ史上初の2枚組アルバム『All Eyez On Me』が全米を席巻するなかで意欲的に動き回り、ビギーやバッド・ボーイのみならず、モブ・ディープやジェイ・Z、ナズら主要な東海岸のラッパー、ついでにシュグの粗暴さを嫌ってデス・ロウを去っていったドクター・ドレーもディスりまくって〈東西抗争〉と呼ばれることになる諍いの矢面に立つ。しかしながら、実体としてラッパーの大勢が東西に分かれて憎しみ合ったような事実はなかったし、メディアが盛り上げた抗争の実体は、野心的なシュグと怒れるパックのバッド・ボーイに対する私怨と言ったほうが正確だったのだろう。皮肉にもNY生まれであることに負い目を感じていたのか、必要以上に〈Westside!!〉とアピールするパックの姿は哀しくすらある。一方で、現在に至るまで延々とリリースされている数百もの未発表曲を一心不乱にレコーディングしながら、主演映画の撮影……という超人的なスケジュールまでをもパックは精力的にやり遂げた。生き急いでいる――周囲の目にもそう映ったようだ。デス・ロウを利用して娑婆に戻ったパックではあったが、支離滅裂に駆け巡る偽悪的なリリックは一線を越えた心の叫びの裏返しだったのか、どうなのか。

 ひとまず抗争モードでやり抜いて、自由になったら本来やりたいことがあったのは確実だろう。盟友ジョニーJいわく2人で設立したチーム=ノンストップ・プロダクションではアラニス・モリセットのプロデュースなど裏方仕事も視野に入れていたそうだし、ブート・キャンプ・クリックら仲の良い東海岸の面々と構想が練られていたという〈ワン・ネイション〉は、恐らく抗争の終わりを告げるためのプロジェクトだったのではないか。また、『All Eyez On Me』のオリジナル・アートワークにはこの後に設立される〈マキャヴェリ・レコーズ〉の告知も掲載されていて、アウトロウズの面々ら後進たちをデビューさせていくつもりだったのだとも思う。ただ、アルバム3枚分の契約を早めに満了するべく2枚組のアルバムを出し、8月には『Tha Don Killuminati: 7 Days Theory』となる次の作品も仕上げてデス・ロウを出るつもりだったようだが(それでも、やっつけ仕事にならないのは流石だ)……それならとばかりにシュグにデス・ロウの東海岸支部の設立を持ちかけられて(その時点でシュグの中に反NYの気持ちなどなかったことは明白だ)、逆らえなかったのか、それとも逆らわなかったのか。結局カメラの前でデス・ロウ・イーストの設立をブチ上げたのは9月4日のVMA会場でのことだった。この日にナズと和解したパックは、ラスヴェガスに向かう途上で彼の『It Was Written』を聴いていたという。

 9月7日、ラスヴェガスでマイク・タイソンのタイトル・マッチを観戦したパックは、シュグの運転するBMWに同乗している際、横付けにされた車から発砲に遭い、4発の銃弾を浴びる。危篤状態は6日間続いたが、長い睫毛をたくわえたその大きな瞳が開かれることは、二度となかった。

 その死からおよそ1か月後、〈2パックが撃たれました……〉というニュースで始まるマキャヴェリ名義での遺作『Tha Don Killuminati: 7 Days Theory』がリリース。さまざまな事由から〈パックが生きている〉という噂が流れたのもすぐのことだ。事件の捜査は誰もが目撃者に関して口を閉ざしたことで難航。容疑者の面通しに唯一協力を申し出たとされるアウトロウズのカダフィ(ヤフー・フラー)も、事件直前にパックとシュグに暴行を受けた有力な容疑者も(後に)撃ち殺された。翌年3月にはビギーがLAで銃死。なぜパックやビギーが殺されたのか、そこに関連はあるのか、真相はいまも闇のなかだ。

 なお、「XXL」誌の2003年10月号にて母アフェニは初めて息子の最期について語っている。

 「(医師たちが蘇生を試みたが)結局は彼にそうする気がなかったんだと思う。彼の好きにさせてやって、と私はドクターにお願いしたの。そして彼は自由になった」。

 死によってようやく得た自由。故人を無闇に崇め奉るよりも、その足取りから各々が何を考えるかのほうが重要だろう。2パックは神格化されるべき聖人ではなく、己の人間味の中で揺れ続けた人だったと思う。唯一ハッキリしていて、今後も変わらないであろう評価は、彼が不世出のラッパーだということだけだ。

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