Photo by Jessica Miglio  ©2017 GRAVIER PRODUCTIONS, INC.

ウディ・アレン映画の根底にある世界観を、ソリッドに追求した最新作はここが違う!

 巨匠ウディ・アレンの49作目の監督作品である。このタイトルの観覧車について、アレンは次のようにコメントしている。

 遊園地の乗り物は人生を象徴している。ひたすら回り続ける観覧車を無意味な人生の繰り返しに例えたり、…(中略)観覧車からの眺めは壮観だが、いつも同じ場所を回転しているだけで、どこか別の場所に行くことはできない。観覧車は、ロマンス、美、そして究極の虚無の象徴だ。

 “無意味な人生の繰り返し”“虚無の象徴”。この人生への深い諦念こそ、ウディ・アレン映画の根底に流れる世界観である。この諦念を、例えば自虐的な笑いなどでデコレートする作法が、ウディ・アレン映画特有の“旨味”となっていると言えばいいだろうか。では、この諦念デコレート作法の観点から本作を紐解くと何が見えるだろうか。

ウディ・アレン 女と男の観覧車 VAP(2018)

 主人公は、遊園地のレストランの中年ウエイトレスだ。ある日、中年ウエイトレスは海岸で監視員をしている脚本家志望の色男と不倫の関係となるのだが、夫の前妻との娘がその色男と出会い相思相愛になってしまって、というお話である。

 ケイト・ウィンスレット演じる中年ウエイトレスは、色男との出会いから“本来の人生”を取り戻すべく静かに狂い発情していく。恋のライバルとなる義理の娘の肉体の若さと対比されるウィンスレットの老い! アレンは、女性の年齢的な対比を容赦なく残酷に見せつける。それも、『ブルージャスミン』のような残酷さを“笑い”に転化するある種の救いすらアレンは与えない。

 そう、本作のアレンは、諦念にいかなるデコレートも施さない。ヴィットリオ・ストラーロの撮影も、身も蓋もないヒロインの現実を容赦なく照らし出すのみだ。ヒロインへの寄り添い方、その残酷さにおいて本作は成瀬巳喜男やダグラス・サークのメロドラマに急接近している。何よりケイト・ウィンスレットがその佇まいから素晴らしく、思い出すだけで泣けなくて涙が出る。

 アレンの新境地となる傑作である。