シンガポール在住、バングラデュ国籍のSasha(ヴォーカル/ギター)と、東京に住むFumina(ベース)の2人からなる遠距離ロック・バンド、Chiriziris。彼らのデビュー・アルバム『Chiriziris』が、シンガー・ソングライターのマーライオンのプロデュースのもと、彼が主宰するNIYANIYA RECORDSからリリースされた。90年代のUKロックへの憧憬を隠さないこのストレートなロックンロール・レコードは、すがすがしい開放感に満ち溢れている。
しかしながら、謎は多い。録音データのやりとりによる制作も一般的になったとはいえ、Chirizirisの活動スタイルはあまりにも特殊だ。Chirizirisとはいったい何者なのか? そして、アルバムはどんなふうにして生まれたのか? Sasha、Fumina、マーライオンの3人に話を訊いた。英語と日本語、2つの言葉が飛び交った不思議な取材の模様をお届けしよう。
ノエル・ギャラガーがマイ・ヒーロー
――Sashaくんが取材を受けるのは初?
Fumina「そうですね」
マーライオン「これがSashaくんの譜面です。ヴォイシング(和音の配置)がヤバい……」
――マーライオンがブログに書いていたやつですね。〈C〉〈G〉といったコード・ネームじゃなく、オリジナルのコードが〈コード1〉〈コード2〉と書いてあるという。Sashaくんはいつギターを始めたんですか?
Sasha「演奏したいと思ったのは10歳のときですが、ちゃんと学びはじめたのは13歳。YouTubeでオアシスのライヴを観て、コピーを始めました。でも、僕のギターはスタンダードなチューニングで、〈全然ちがう!〉って思って(笑)。彼はドロップDチューニングだから。近い音を鳴らそうとしたんだけど、全然できませんでした。だから、チューニングはスタンダードでもコードは変なものになっていって。
作曲を始めたのは14歳の頃です。どれもひどい曲でした(笑)。初めてちゃんと曲を書いたのは2014年かな。シンガポールでノエル・ギャラガーのコンサートを最前列で観て、その日のうちに曲を書いたんです。それが何年か経って“Kurokawa no Jikan”になりました」
――ノエル・ギャラガーが大好きなんですね。
Sasha「少年時代のアイドルです。神様みたいに思ってました。丸いサングラスも買いましたよ(笑)。最初に弾いたのは(オアシスの)“Live Forever”(94年)。ノエル・ギャラガーは僕にとって最初のヒーローでした」
Fumina「で、どうしてこういう変なコードでギターを弾くようになったの?」
――レギュラー・チューニングでドロップDのサウンドを表現しようとしているんですか?
Sasha「そんな感じです。実を言うと、僕はマイナー・コードが好きじゃないんです。たとえば、悲しみのような感情や思いをマイナー・コードで表現したくない。どんなものでもベーシックなメジャー・コードから始めるんですが、僕はそれを変えてしまうんです。マイナーに響かせないよう、好きなように(和音の構成)音をいろいろと変えていきます」
Fumina「でも、完全に手癖なんです。我流でガンガン曲を作って、曲の構成もめちゃくちゃで……」
Sasha「ときどき、曲を〈書いている〉と感じないこともあります。曲が〈現れる〉というか。一音を鳴らしただけで、他の部分も突然出てくることがあるんです」
Jインディーとジャパニーズ・シューゲイザーからの影響
――Chirizirisの結成のきっかけは? SashaくんがFuminaさんのバンドの曲を聴いてメッセージを送ってきたという話でしたが。
Sasha「2015年ですね。夜中、ベッドにいて、BandcampでJインディーをいろいろ聴いていたんです。そのなかにMango Slice Low Sugarっていうバンドがいて」
――Fuminaさんが大学の頃にやっていたバンドですね。
Sasha「なにも知りませんでしたが、ただサウンドが好みで、〈このバンドだ!〉って思って。(Fuminaがやっていた)うみべのまちの曲も聴きました。それで、彼女がなんのパートかも知らないままメールをしたんです。“Lighthouse on the Shore”のリンクも送りました。返信してくれるなんて思ってなかったから、返事が来てびっくりしました(笑)」
――日本の音楽のことはどうやって知ったんですか?
Sasha「詳細は省くけど、高校を卒業した2014年の夏から聴くようになりました。日本のアニメも観ていましたし。
シューゲイズにも入れ込んでいて、ジャパニーズ・シューゲイズをたくさん聴きましたね。COALTAR OF THE DEEPERS、少女スキップ、Oeil……。OeilのEP『Urban Twilight』(2007年)は僕にとってすごく重要な作品です。
いちばん影響を受けたのは少女スキップで、『COSODOROKITSUNE』(2012年)に入っている“tedukurinotori”は何か月も聴いていました。だから、特に日本の音楽に入れ込むきっかけになったのはあの曲なんです」
僕にとってhideは5分間だけ生きていたんです(笑)
――Sashaくんはhideも好きなんですよね。
Sasha「2016年か2017年に知りました。韓国の友だちがJメタル好きで、X JAPANの大ファンだったんです。僕にとってX JAPANは〈まあ、OK〉(笑)。でも、hideの“ピンク スパイダー”を聴いたときは〈すごい!〉と思った。それから『Ja,Zoo』(98年)の“BREEDING”を聴いて、〈うわっ、かっこいい!〉って思って。
そのときの衝撃のようなものを追い求めています。あの興奮をひとに感じてほしいと思って音楽をやっているんです。それが僕の目標ですね。
実は、hideを知った5分後に、彼が亡くなっていることを知ったんです。だから、僕にとって彼は5分間だけ生きていた(笑)」
Fumina「インターネットだなあ(笑)」
Sasha「映像を観ても、彼がまだそこにいるかのように感じるんです。hideの西洋の音楽に対する考え方は、僕が日本の音楽に感じたことと似ていました。
彼のブログが残っていて、いまでも読めるんですが、おもしろいですよ。ストーン・テンプル・パイロッツやナイン・インチ・ネイルズについて書いているんですが、彼は日本人としてそういったバンドを聴いているわけです。それを読むことは、僕にとっては精神的な会話みたいなもので」
Fumina「ええっ(笑)!?」
Sasha「変だけどね(笑)。複雑でごめん」
――Chirizirisは当初、〈Koi Wa Moumoku〉として曲を発表していたんですよね。制作は大変だったのでは?
Sasha「Fuminaには申し訳なかったです。僕はメトロノームが好きじゃないので。ディストーションをかけたリズム・ギターを僕好みのサウンドで録って、〈これがギター・トラックだから、好きに使って〉って送って、という感じで(笑)。最初の曲は“Mr.Reunion”」
Fumina「Bandcampで発表した、最初の『EP#1 "KNJ"』(2015年)の話ですね」
Sasha「彼女のデモにはリズムマシーンやオルガンが入っていたから、〈これがコラボレーションか!〉って思いました。メールを頻繁にやりとりして曲を作りましたが、“Kurokawa no Jikan”ではそれをやらなかった。僕はただギターとヴォーカルを録って、後はFuminaが全部やってくれました」
――〈Kurokawa no Jikan〉という曲名はどういう意味なんですか?
Sasha「イメージです。本当は〈time’s black river〉〈black river of time〉を表そうとしたんですが、僕の日本語が下手だったから、逆になってしまって。この曲にはヴァースやコーラスといったパートがないと思うんです。それはただ……」
――〈川〉のよう?
Sasha「そう。ずっと進んでいって、最後まで流れていく。静かで、暗くて、全体的なムードは悲しげ。でも、マイナー・コードはなし(笑)」
目標はJインディーの一員になること
――マーライオンは2人が制作していたことを知っていたんですか?
マーライオン「知ってました。でも最初は〈ほんとに作ってるの?〉って、疑心暗鬼で(笑)。ただ、Koi Wa Moumoku名義で曲が出来はじめた頃からおもしろいなと思い直しました。〈Chiriziris〉というバンド名は僕が命名したんです。〈散り散り〉という意味で、濁音があるとバンド名としてかっこいいなと思って」
――英語には〈apart〉って訳せばいいのかな。
Sasha「〈scattered〉ですね」
――じゃあ、Chirizirisは〈Scattereds〉だ(笑)。Sashaくんはどうしてシンガポールでバンドを組まずにFuminaさんとChirizirisを始めたんですか?
Sasha「高校生の頃はバンドに入っていたんですが、日本の音楽から聴こえるおもしろいものをシンガポールでは見つけることができませんでした。だから、日本の音楽の潮流に飛び込みたいと思ったんです。2015年はJインディーにニューウェイヴが起きていて、きのこ帝国とかは本当にクールだと思いました。僕の最初の目標は〈Genon〉だったんです」
――〈Genon〉?
Fumina「〈現音(ゲンオン)〉です。〈現代音楽研究会〉っていう明治学院大学のサークルで」
Sasha「2015年の秋、現音コンピに一曲提供することができたので、僕は〈この潮流の一員だ〉って言えるようになりました。EPもアルバムもライヴも、その後から付いてきたんです。もともとの目標はJインディーの一員になることでした」